高校時代を同じラグビー部で過ごし、卒業後数年を経て1998年にコンビを結成。ことし9月で結成20年を迎えるサンドウィッチマン。M-1グランプリ2007で優勝し、一躍脚光を浴びるまでの彼らが、どのような歩みを経て力をつけてきたのかを語ってもらいました。
――1998年にコンビを結成して上京されたお2人。その後、M-1グランプリで敗者復活からの優勝を果たす2007年までに約10年ありました。当時はお2人同居されていたんですよね。
伊達みきお:そうですね。「10年も同居してたってすごいですね!」と驚かれるんですが、それが今もピンとこないんですよね。そんなにすごいことですかね?
――珍しいとは思います(笑)。ネタ合わせは家でやっていたんですか?
伊達:そうですね。布団で寝ながらとか。
――目を瞑る直前までネタ合わせ? 興奮して寝付けなくないですか?
富澤たけし:そんなトップギアではやらないですよ(笑)。ぼそぼそとセリフを合わせる程度で。
伊達:夜中だしね。セリフの確認というか。
富澤:動きも感情もなくただセリフを言ってるだけなので、興奮はしないです。
伊達:立って稽古をするときは、足の踏み場がなかったので、ちょっとスペースをこじ空けてね。舞台と同じように2人で同じ方向を向いてやっていました。
――当初はホリプロさんに所属されていた時期もあるんですよね?
伊達:そうですね。3~4ヵ月しかいなかったんですけど。
――当時、接点があった先輩芸人さんはいますか?
伊達:さまぁ~ずさんとは草野球を一緒にやってたんですけど、覚えてないだろうな…というくらいの接点の薄さです。でも当時、三村さんが若手のネタを見てくれていて、一度ネタ見せで見てもらったことがあるんです。「面白い」と言ってもらえてうれしかったですね。
――大きく変わったターニングポイントは「M-1グランプリ」(テレビ朝日系)ですか?
伊達:ターニングポイントは「エンタの神様」(日本テレビ系)と「M-1グランプリ」ですね。僕らは世に出られなければきっぱり辞めようと思ってましたから。「エンタの神様」は、当時出ていたお笑いライブが撮影されていて、それを見たスタッフさんから出演依頼をもらいました。都内の大体のライブに、そういう(芸人発掘目的の)カメラが入っていたんです。それでもずっと引っ掛からなくて、ようやく引っ掛かったのが2005年。それからしばらくして「エンタの神様」に出られるようになって。それと同じころに出始めた「虎の門」(2001~2008年テレビ朝日)もターニングポイントでしたね。生放送でネタをやったのは「虎の門」が最初です。「虎の門」の藤井智久プロデューサーと、「エンタの神様」の五味一男プロデューサー。この2人が僕らを見つけてくれた恩人ですね。「虎の門」のネタ見せでは、(後にM-1で優勝した)ピザ屋のネタをやったんですよ。そうしたら藤井さんが「今までどこにいたの?」と言ってくれて。普通にいたんですけどねって(笑)。そこからほぼ毎週、漫才をやらせてもらいました。いろいろ怒られたりもしましたけど。
――ネタのテイストだとか、何かしらを変えたから目に止まったわけではなく?
伊達:ツッコミのテンポだとかをちょっと前から変えてはいました。でも大きく変えたりはしてないですね。
――昨年放送された「漫才先生」(NHK総合)で言われていて話題になりましたが、漫才の始まりを「〇〇が一番興奮するね」「間違いないね」の一言ですぐネタに入る形に固定したのはいつごろ?
伊達:あれはM-1からだよね。
富澤:M-1対策だね。2006年くらいにはやってたと思います。
伊達:すぐネタに入るにはどうしたらいいかと考えて。M-1はネタ時間が4分しかないので、どうやったら瞬時にネタに入れるか。だいたいみんな「オレ警察官になるのが夢なんだよ」「じゃぁ俺が泥棒役やるから、おまえ警察官やってみなよ」というつまらない何秒かがあるんですが、それがもったいないなって。すぐネタに入れるように考えて、この形にしました。
――そして2007年の年末に念願のM-1グランプリ優勝。敗者復活からの優勝でしたが、敗者復活戦を勝ち上がる手応えはあったんですか?
伊達:いえ、それまでも敗者復活戦には毎年出ていたので、いつも通りにネタをやって終わり、という感じでした。
――それがあれよあれよと優勝まで一気に。そこからしばらくは同居されたまま?
伊達:半年後くらいにやっと引っ越しました。優勝してからそれまで休みがまったくなくて。
――引っ越す時には万年床の下の畳が腐っていたとか…。
伊達:そう。だから退去するときにけっこうな金額を請求されましたね(笑)。
取材・文=松田優子
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