――堀悌吉という人物を番組にしようと思われたきっかけを教えてください。
2013年8月にOBS大分放送が制作した「最後の特攻~彼らはなぜ飛び立ったのか~」という番組があります。玉音放送の後に、大分から飛び立った特攻隊のドキュメンタリーで、放送後さらに掘り下げようと、大分放送と一緒に番組(「茜雲の彼方へ~最後の特攻隊長の決断」2014年8月)を作りました。
その特攻隊の隊長が宇佐航空隊の教官だったこともあり、宇佐の方々に取材させていただいたのですが、その縁もあり宇佐で講演を行うことになりました。そこに堀悌吉を研究されている方がいらしていて、その方から堀悌吉の話を聞きました。
大分に「先哲史料館」という施設があり、「先哲叢書(せんてつそうしょ)」という大分の先人たちの業績や伝記を編さんして刊行しているシリーズがあります。その一冊に堀悌吉の評伝があり、その本で彼を詳しく知ることになりました。
山本五十六の「心友」と言われた人ですが、資料に触れ、山本という有名な人物の陰にいた人物の大きさを知りました。海軍兵学校で知り合った二人は同じ価値観を持ち、独身時代に二度も同居するなど本当に仲が良かった。
あの時代にあって、平和主義というか、非戦の思いをずっと持ち続けていた人がいた。けれど、それが封じられて、日本はまったくの逆方向、戦争に突っ込んでいってしまった。
山本五十六も、真珠湾攻撃を指揮しながら、実は開戦に反対していたという話は有名ですが、その背景を、堀悌吉を知ることでより深く知ることができた。堀の考え方を知れば知るほど、どんどん興味は広がっていきました。
――堀悌吉の人物像を、どんな風に伝えられるのでしょうか?
資料の一つ一つを読んでみると、軍人を目指し、そして軍人の現実にぶちあたって悩んでいたことが分かります。考え続けて、「結局戦争って何なんだ」という疑問の中で、戦争は「乱・凶・悪」であるとする「戦争善悪論」という論文を書き、問題視されます。他の論文などでも世界の平等文明とか、平和という言葉を使い、当時としては「異端」だったと思います。
堀悌吉は、軍人を目指して軍人になったけれども、現実に直面して軍人が嫌いになったのではないかと思うんですね。でも、彼は決して軍人を辞めようとするのではなく、軍人としてあり続ける中で、戦わないために何ができるか、ということを突き詰めて考えて、行動に移していたのだと思います。
軍縮、国際協調にどんどん踏み込んでいき、それを軍縮条約に反対する艦隊派から突かれました。上海事変の際には、堀は住民に被害が及ばないように考えながら、一時退避もし、民家を破壊することなく戦おうとした。それに対して堀を追い出そうとする一派は、戦闘準備を怠って逃げたという評価をし、行動そのものが排斥に利用されてしまった。そして、ある種の人事抗争に巻き込まれる形で海軍を追われました。
番組で「堀悌吉の運命が日本の運命となった」という表現があります。堀悌吉がそういう運命をたどらざるをえなかった、それによって日本がどういう運命をたどることになったのか、まさに直結している話だと感じさせられます。
堀悌吉本人は「悔恨の念」という言葉を使っています。自分が違う行動をしていたら日本の運命は変わっていたのではないかと、悔いを残している。自分の筋を通せば通すほど、自分の思いとは違う方向に行ってしまうところが見えていた。
そんな困難な状況でも、信念だけはずっと貫き通した彼の人間像を素晴らしいと思うと同時に、生き方の難しさも思い知らされます。
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