<西野亮廣>ゴミ人間〜『えんとつ町のプペル』誕生の背景と込めた想い〜「ファンとは何か?」【短期集中連載/第5回】

2020/09/21 17:30 配信

映画

人は「変わること」を拒む


きっと、「クラウドファンディングでお金を集めて、クラウドソーシングでスタッフを集めて作る」は、「他人の金を使って、他人に作らせる」と脳内変換されたのだと思います。このときも酷いバッシングを浴びました。何かを始めるときはいつもこの調子。面倒くさいなぁ。

そして、今度はファンの方からも非難を浴びました。「分業制にすると、作家性が薄れてしまう」「ボールペンで描く西野さんの絵が好きだったのに」と散々。実際、このときのクラウドファンディングは、なかなか支援が集まりませんでした。『えんとつ町のプペル』は誰からも求められなかったのです。

「分業制にすると作家性が薄れる」という意見には異論がありました。というのも、僕の頭の中にある「えんとつ町」には色が付いています。しかし僕には、その色をキャンバス上に再現する能力がありません。仕方がないので、僕は黒色のボールペン一本で「えんとつ町」を描いていました。分業制に切り替えて、色が付いた「えんとつ町」は、僕の頭の中にある「えんとつ町」そのもの。作家性(僕)が出ているのは、むしろコッチです。「一人で作る=作家性が濃くなる」「大勢で作る=作家性が薄くなる」という結論は、あまりにも短絡的だと思いました。

発表時は西野の支持者からも批判が集まった「分業体制での絵本制作」だったが、この一枚によってバッシングは期待に変わった絵本『えんとつ町のプペル』 幻冬舎刊


ファンとは何か?


作家性ウンヌンカンヌンは言葉の綾で、きっとファンの皆様の本音は「変わって欲しくない」だと思います。これまでどおり、ボールペン一本で描いて欲しかったのだと思います。

この時、強い違和感を覚えました。もともとは西野亮廣を応援していた人達が、気がつけば西野亮廣をハンドリングし始め、ついには「ハンドリングに従わない西野亮廣」を非難。これは、あらゆる表現者や、あらゆるサービス提供者が直面する問題ではないでしょうか? 僕は「ファン」について、少し考えてみることにしました。

世界の理は「弱肉強食」ではなく、「適者生存」です。いつの世も、環境に適した者が生き残っています。そんな中、変化することを認めない人達のことを「ファン」として、その人達のリクエストに応えてしまうと、時代の変化と共に全てが終わってしまいます。

長年、店に通ってくれているお客さんが、店を「私物化」し、経営方針に口を挟む光景をときどき目にします。彼らは往々にして「変わること」を拒みます。「自分がときめいたあの頃のままでいて欲しい」と願い、店が彼らのリクエストに応え続けた結果、店が潰れてしまっても彼らは何の責任も負いません。本人達は「店のファン」と名乗りますが、本当のところは「店のファンだった人」だと思います。本当の「ファン」は、店を私物化し、店を潰すようなことはしません。本当の「ファン」は、自分の居心地よりも、店の未来を願うハズ。僕らは「ファン」と「ファンだった人」を明確に区別する必要があります。

絵本『えんとつ町のプペル』を分業制で作ることに反対した人達は「ファンだった人」で、彼らのリクエストに応えてしまうと未来がありません。身が引き裂かれるような思いでしたが、「一緒にいられない」と判断しました。

誰からも求められなかった『えんとつ町のプペル』でしたが、一ページ目の絵が完成した瞬間に、風向きが一気に変わりました。「分業制にすると、作家性が薄れてしまう」「ボールペンで描く西野さんの絵が好きだったのに」という声は消え、「早く完成が見たい」という声で埋まりました。そのタイミングで再びクラウドファンディングを立ち上げたところ、今度はたくさんの支援が集まりました。結局、作者の頭の中の景色は誰にも想像できません。だから形にするしかないのです。分業制に踏み切ったあの日、サヨナラしてしまった人達は、今、何をしているのだろう。また応援してくれると嬉しいな。きっと僕はまた変化をするけど、今度は一緒に未来を見たいな。

(第6回は9月28日[月]更新予定)

関連人物