どんな役にもハマる俳優・阿部寛の意外な過去「20代は不遇の時代だった」

2017/11/15 06:00 配信

芸能一般

ことしで俳優生活30年を迎える阿部寛撮影=西村康

週刊ザテレビジョン創刊35周年のメモリアルとして、本誌を彩ってきたテレビスターたちがテレビとの思い出を語るSPインタビュー企画を連載中。 第10回はことしで俳優生活30年を迎える阿部寛が登場。“阿部ちゃん”の愛称で、ファッション誌の人気モデルだった青年が、ドラマ&テレビに活躍の場を移して30年。どんな役にもハマってみせる名俳優となった彼のキャリアを振り返ると、そこには役とひたむきに向き合った日々があった。

「普通に就職しよう」と思っていた学生時代


大学2年生から雑誌のモデルを始め、カリスマ的人気を博した後、23歳で俳優業に進出。だが、当初は俳優になる気はなかったという。

「子供のころはよくドラマを見ていたのですが、自分が俳優になるとは思ってもいませんでした。当時好きだったのは、石立鉄男さん主演の『水もれ甲介』(1974~75年日本テレビ系)や、久世光彦さん演出の『寺内貫太郎一家』(1974年TBS系)、『ムー一族』(1978~79年TBS系)でした。萬屋錦之介さん主演の『子連れ狼』(1973~76年日本テレビ系)も好きでしたね。高校生になって衝撃を受けたのは、『ふぞろいの林檎たち』(1983年ほかTBS系)。というのも、皆さんの演技がいい意味で普通で。だから、これなら自分にもできるんじゃないかと素人考えで思っていました。今思うと、根拠のない自信というやつです(笑)。でも、大学に入ってからも普通に就職しようと思っていたし、俳優の道に進むことは考えていませんでした」

しかし、23歳で転機が訪れる。映画「はいからさんが通る」(1987年)で、当時人気アイドルだった南野陽子の相手役に大抜てきされたのだ。

「そのときも就職活動をしていたんですが、俳優志望のモデル仲間がいて、俳優も選択肢の一つにあるのかなと思い始めた時期で。そんなときにお話をいただいて、南野さんは当時押しも押されもせぬアイドルでしたから、出演をお引き受けしました。とはいえ、俳優としてはド素人。クランクイン前に監督と何日もリハーサルをして現場に入ったんですけど、いざカメラテストになったら頭が真っ白になって。あのときのことは今でも鮮明に覚えています(笑)」

20代不遇の時代からの大きなステップアップ


翌年、「花嵐の森ふかく」(1988年日本テレビ系)で連続ドラマデビューし、「ぼくが医者をやめた理由」(1990年テレビ東京系)で連ドラ初主演。好調な滑り出しに思えるが、自身は「20代は不遇の時代だった」という。

「このころはセリフを言うだけで必死でした。でも、それだとダメだと思い、1993年に劇作家であり、演出家のつかこうへいさんを訪ねました。俳優としてはそこでの経験が大きく、『熱海殺人事件 モンテカルロ・イリュージョン』という舞台に出させていただいたときに、初めて俳優として評価していただいて。そのときの役がバイセクシャルの敏腕刑事という、自分のこれまでの演技経験ではとても手に負えそうにない役柄で、最初は不安を抱えていたのですが、いざ舞台に立ってみると、お客さんが楽しそうに笑ってくださったんです。それがとてもうれしくて。俳優としてその喜びを今後一切、逃したくないと思いました。だけど、それが映像にはなかなかつながらなくて、当時は相当焦りを感じていました」

その思いが草なぎ剛主演の「成田離婚」(1997年フジ系)でついに花開く。

「当時はトレンディードラマに出させていただくのが夢だったので、お話をいただいたときはうれしかったですね。それまでに苦汁を飲んできているし、名前を売らなければという思いもありました。僕が演じた北村卓哉は、草なぎさんの上司であり、海外赴任中に浮気がバレてしまったエリート会社員という設定だったのですが、草なぎさんはこちらがどんな芝居をしても受け止めてくださって、とても頼もしく思っていました。結果、このドラマで世間的にも評価をしていただき、次につなぐことができたので、草なぎさんには本当に感謝しています」