黒澤明に代わり、急きょ、映画「東京オリンピック」の監督に就任する。「記録映画も美しく撮ればいい」の言葉どおり、完成した作品は極めて芸術性の高いものとなり、当時の興行記録を塗り替える大ヒットとなった。
日本建築界の巨匠。日本の伝統美と西欧の近代建築を融合させた斬新なデザインで、戦後の芸術界をリードした。1964年東京オリンピックのために設計した国立代々木競技場は、20世紀を代表する名建築として高く評価されている。
二度にわたって大蔵大臣を務め、戦後の賠償交渉に辣腕(らつわん)をふるった。東龍太郎の後任として日本体育協会会長に、さらに1964年東京オリンピック組織委員会の初代会長に就く。62年アジア競技大会をめぐり、田畑とともに政治スキャンダルに巻き込まれる。
大蔵次官を経て政界に転じ、当選1回ながら大蔵大臣に就任。吉田茂の右腕として頭角を現す。1960年に内閣総理大臣に就任すると「所得倍増計画」を打ち出し、戦後の高度経済成長をけん引する。1964年東京オリンピックを首相として見届ける。公式記録映画「東京オリンピック」総監督。
1945年(昭和20年)8月6日、原子爆弾が投下された広島で生まれる。高校在学中に国民体育大会の陸上400mで優勝し、1964年東京オリンピックへの出場を目指すが、代表選考会で敗退。田畑によって、開会式の最終聖火ランナーに抜擢される。
国立競技場のすぐそばにある食堂「水明亭」の主人。土地柄、スポーツ選手や観戦客にも愛され、いつも常連たちでにぎわっている。1964年東京オリンピックの開会式当日、ひょんなことからスタート直前の最終聖火ランナー・坂井義則をかくまうことに…。
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