日本のデザイン界を代表するグラフィックデザイナー。1964年東京オリンピックのシンボルマークを制作、短距離走のスタートの瞬間をとらえた公式ポスターなども手掛ける。その斬新で力強いデザインは、半世紀を経た現在も高く評価されている。
「羅生門」「生きる」「七人の侍」など映画史に残る作品を数多く生み出した日本映画界の巨匠。1964年東京オリンピックの記録映画の監督に決定するが、信頼する田畑が組織委員会を去り、のちに自身も辞退する。
昭和を代表する国民的歌手。朗らかな笑顔と浪曲で鍛えた美声で知られ、数々のヒット曲を生み出す。1964年東京オリンピックでは「東京五輪音頭」が大ヒット、のちの大阪万博のテーマ曲「世界の国からこんにちは」とともに、戦後日本の復興の象徴となった。
タクシー運転手としての腕を見込まれて「聖火リレー踏査隊」の一員となり、ギリシャのアテネからシンガポールまで2万キロメートルの距離を自動車で走破する。オリンピックの魅力にとりつかれ、田畑に直訴して組織委員会の式典課に入り、大会準備に奔走する。
ヨーロッパの日本大使館や有名ホテルで修行した後、国内屈指のホテルの料理長に就任。1964年東京オリンピックでは選手村のレストラン「富士食堂」の料理長として、日本になじみのなかった世界各国の料理を提供し、選手たちの活躍を支えた。
1932年ロサンゼルスオリンピックでは三段跳びで銅メダルを獲得。大学卒業後は陸上競技を続けながら運動部記者として活躍する。陸上界きっての理論派で海外事情にも明るいことから、組織委員会では選手強化本部の責任者として、選手育成に貢献した。
早稲田大学在学中、国旗の知識を見込まれ、組織委員会にスカウトされる。1964年東京オリンピックでは、国旗を正しく掲揚することがホスト国の使命であるとし、史上最多の参加国となった94か国の国旗の手配に奔走する。
1964年東京オリンピックでは得意のフランス語を生かして、たった2人の選手で初参加したコンゴ共和国のボランティア通訳を務める。小柄なため、身長の高い選手たちからフランス語で「ちび」という愛称で親しまれる。
政治の次女。1964年東京オリンピックの会期中は世界各国のVIPを接待するコンパニオンとしても活躍する。開催の直前に、組織委員会の要職を解かれた父を、母・菊枝(麻生久美子)とともに陰で支える。
1955年に自衛隊に入隊し、主力戦闘機のパイロットになる。航空自衛隊の曲技飛行チーム「ブルーインパルス」で編隊長を務め、1964年東京オリンピックの開会式で、国立競技場の上空に五つの輪を描くミッションに挑むことになる。
この記事の関連情報はこちら(WEBサイト ザテレビジョン)