7年ぶりにテレビ番組を見るというライター・城戸さんが、TVerで見た番組を独特な視点で語る連載です。今回は「くりぃむナンタラ」(毎週日曜夜9:55-10:55、テレビ朝日系)をチョイス。
音楽番組に思う「どうして歌詞が明朝体なんだろう…」
音楽番組というのが昔から何となく苦手で、音楽番組というか、音楽をメインに扱ったバラエティ番組、と言ったほうがいいだろうか、これまで自分から進んで見ないようにしていた。それは何らかの思想があってのことではなく、たとえば友人の家に行ったときとか、飲食店に設置されたテレビで図らずも鑑賞するとき、どうしてもこう思ってしまうからだ。「どうして歌詞が明朝体なんだろう…」と。
今のテレビには詳しくないので、一概にそうとは言いきれないのだろうけども、少なくともかつてテレビっ子だった私の認識から言うと、画面上に示される歌詞は必ずといっていいほど明朝体だった。くだけた曲調の歌詞なんかはポップ体で示されることもあるが、少なくとも詩情豊かな歌詞、というか、その画面で”良い詞”とされている歌詞は必ず明朝体だ。さらに歌詞だけに留まらず、名言や詩といった、泣きの入る文言は必ず明朝体で示されてきた。代表例が島田紳助だろうか。特に深イイ話での彼は凄かった。明朝体とともに生きた男だ。近年ではマツコ・デラックスが明朝体と共に生きているイメージがある。お笑いタレントでありながらも、発言のひとつひとつに重みがある、そんな人物だけが、明朝体とともに生きることができる…とでも言えそうだが、私はいま適当を言ってるだけなので、あまり真に受けないでいただきたい。
また明朝体は、泣きだけでなく、笑わせに使われることも多い。核心を突いたツッコミとか、若干ダークな笑いというか…。”緊張と緩和”がお笑いの基本的な概念だとするならば、”緊張”から”緩和”へと移行するあの一瞬…あれを示すのが明朝体、というか…不甲斐なさゆえうまく言語化ができないが、”明朝体”に潜む笑いの種というのは、多くの人が肌で感じられることだろう。事実、明朝体はテレビだけでなく、YouTuberらも多用している。「今、この発言は明朝体だろう」という感覚は、もはや媒体にかかわらず、多くの人々が共通して持ち合わせているに違いないのだ。
だからこそ、なのか、私は昔から明朝体を用いたテロップが苦手だった。そのユーモアの手軽さというか、なんてことのない文言でも、明朝体として示されることで厳かさをまとい、ドーピング的に魅力を得られてしまう不誠実さ…とまで言うと大袈裟かもしれないが、バラエティ番組やYouTubeで即席的に明朝体を用いるというのは、なんだか倫理を欠いているように思えてしまうのである。歌詞や名言、詩などで用いられる明朝体も同様に、「ステキでしょう」「詩情豊かでしょう」と押し売りをされているようで抵抗感がある。明朝体というのは、”装備品”なのだ。
もちろん明朝体に限らず、すべてのフォントには作為が宿り、言葉の純度というものは目減りしていく。それがMSゴシックであろうが、手書き文字であろうが、”文字”として視覚的に示されてしまった時点で、それは”言葉”でなくなる。文字でなく声で発せられる場合も、声色や抑揚によって装飾されてしまうわけで、つまり言葉は、脳から外に出た瞬間に”言葉を作為的に示したもの”と変貌するのだと、個人的には考えている。だからこそ、点字や暗号など、話し手が一度言葉を別のものに置き換え、受け手がそれを解凍して摂取する、という、言葉そのものを素手でさわらないやり取りに興味を惹かれるのだが、いくら何でも話が逸れすぎなのでこれくらいに留めておく。
形を持たない言葉というものに形を与えてしまう罪というのは、なにも明朝体だけが背負っているものではない。それなのになぜ、ことさら明朝体だけに、私は拒否反応を示してしまうのか…。そんな謎を解明すべく再生した、「くりぃむナンタラ」の「この曲のサビ歌える?クイズ!サビカラ!」であったのだが、イントロとAメロを聴きながら「うわ何だっけ…」と苦悩の表情を浮かべ、そしてサビが始まった瞬間に幕が開いて元気よく歌いだす演者たちの姿にめちゃくちゃ笑っちゃって、Aメロが流れてる間めっちゃ苦しんだり慌てたりしてる人たちってあんま見たことないし、確かに歌詞は明朝体だったのだがそんなこと以前に面白くて多幸感あふれてしまったのでこの辺で昼寝でもさしてもらいますわ。あざした。