タレントとその家族が歌合戦を繰り広げるという老若男女が楽しめる内容と、この番組で初めて司会を務めた“欽ちゃん”こと萩本欽一の軽妙なトークで、まさに一世を風靡したバラエティー番組「オールスター家族対抗歌合戦」(1972~1986年フジ系)に放送開始から終了まで携わり、また1987年からはスポーツ局に異動、「プロ野球ニュース」(1961~2001年)、「F1グランプリ」(1987~2011年)といったフジテレビの人気スポーツ番組を手掛けてきた浜口哲夫氏。名プロデューサーの常田久仁子氏と萩本欽一からバラエティー制作の基礎を学んだという彼は、これまでどんな思いでテレビ番組を作ってきたのか。現在も、自らの番組制作プロダクションを立ち上げ、現役のテレビマンとして活躍し続ける彼に、当時のエピソードや、テレビメディアに対する思いなどを語ってもらった。
フジテレビに入社して3カ月で辞めようと思ったんですよ
──浜口さんが作り手として初めて関わった番組は何だったのでしょうか?
「僕は、1968年にフジテレビに入社したんですが、『スター千一夜』(1959~1981年)という番組にADとして入ったのが最初ですね。もちろん下っ端からのスタートだったんですけど、現場は汚いわ、何日も家に帰れないわで、散々な目に遭って(笑)。与えられる仕事も、弁当の手配やゲストの送迎車の手配といった雑用ばかりで、何も教えてもらえない。だから、入って3カ月くらいで辞めようと思ったんですよ。それで上司のところへ行って、『もっとちゃんとした仕事がしたい』と直談判をしたんですね。そうしたら『じゃあ明日からPD卓(演出家が座る席)に座れ』とか、『キャスティングを任せよう』とか、『美術セットをやってみるか?』とか、次々に言われて。その都度『そんな仕事はやったことがないからできません』って答えていたら、突然ひっぱたかれて怒鳴られたんです。『おまえは何もできないから今、勉強中なんだ! 勉強とは自分でするものなんだ!』と。『教えてもらおうとか、言われた通りにやっていればいいとか、そんな受け身の姿勢でいたら、いつまで経ってもおまえは何もできないままだ。いい仕事はできない』と本気で怒られて。そのときに、自分の考えが間違っていたことに初めて気が付いたんです。そこからは、早く認めてもらおうと、腹を決めて一生懸命仕事をしました。あのときのことはいまだに忘れられないですね」
──その後、萩本欽一さんの盟友である常田久仁子プロデューサーの班に入られたそうですが。
「常田さんは、浅草の劇場で活躍していたコント55号をテレビの世界に引っ張ってきて、その後、欽ちゃんと一緒に数々のヒット番組を作った名プロデューサーです。僕は常田さんと欽ちゃんから、“ディレクターとは何か”、“演出とは何か”、そして“笑いとは何か”、“笑いを作る上で何が大切か”、そういったバラエティー番組作りの基本を徹底的に仕込まれました。常田さんと欽ちゃんは僕にとって神様のような人です。
そのころ、僕が出した番組の企画が初めて通ったんですよ。それが『芸能人オールスター夢の球宴』(1971年)。企画が動き出したときは、周りから『絶対無理だ』と言われたんですけど、逆に『よーし、やってやろう!』と。『スター千一夜』をやっていたおかげで、いろんな事務所とお付き合いがあったので、出演交渉はスムーズにできて、ありがたいことに、あっという間にキャスティングは整ったんですね。でも、芸能人が野球をやるだけじゃバラエティー番組としては物足りないので、セレモニーをショーアップしたり、各イニングの間にベンチの上で応援合戦をやったり、自分なりに工夫を凝らしました。すると、いざ放送してみたら、大当たりしたんですよ、これが(笑)。バラエティー番組を作る面白さを初めて実感できたのは、この『夢の球宴』のときだったと思います。やはり、常田さんや欽ちゃんの教えがなければ、あの番組は作れなかったでしょうね。あと、入社3カ月目に僕をひっぱたいてくれた上司の存在も、もちろん大きいんですけど(笑)」