「オールスター家族対抗歌合戦」は“家族のドキュメンタリー”
──浜口さんの代表作である「オールスター家族対抗歌合戦」は、どのような流れで始まったのでしょうか?
「当時の日曜夜8時は、NHKの大河ドラマと日本テレビのプロ野球の巨人戦の2番組で、60%くらいの視聴率を持っていかれていて、残りを他局で奪い合うという形だったんです。で、当然ながらフジの番組も長らく1ケタが続いていた。そんなときに、常田さんが単発の特番で『オールスター家族対抗歌合戦』を作ったんですが、これがかなりの高視聴率を獲りまして。その後すぐに、常田さんがこの番組を日曜夜8時のレギュラーにしたいと編成に売り込んで決まった番組なんです。1972年の10月から始まって、すぐに13~14%まで行って、1年後には20%を超えていました。僕もディレクターの1人として、すごくうれしかったのを覚えています」
――その後、浜口さんがプロデューサーを務められることになったのは、どういった経緯で?
「番組が始まって2年目ぐらいで、常田さんが欽ちゃんと『欽ドン!(欽ちゃんのドンとやってみよう!)』(1975~1980年)を始めることになって。ある日、常田さんに呼ばれて言われたんですよ、『“家族対抗”はあなたに向いてると思うから、あなたにあげる』って(笑)。その一言を残して、常田さんをはじめ『家族対抗』のスタッフが、みんな『欽ドン!』に行っちゃった。僕も『欽ドン!』に参加するつもりでいたんですけど、僕1人だけが『家族対抗』に残ることになったわけです。それで、スタッフを改めて組み直して、僕がプロデューサー・ディレクターとして番組作りの全ての責任を持つことになりました。まだ20代のことで驚いたし、プレッシャーもありましたけど、やりがいはありましたね。その後、1986年に番組が終わるまで、1本も休まずに自分で制作しました。出演交渉では、やはり『スター千一夜』で培った芸能事務所とのつながりが役に立ちました」
──「オールスター家族対抗歌合戦」が多くの人に支持を得た理由はどの辺にあったと思いますか?
「出演する方々が『故郷から出て来た両親と久しぶりに会えてうれしい』とか、『歌の練習で子供と密着できた』とか、『家族が団結した』とか、出演を楽しんでくれる、喜んでくれる。そのことこそが、この番組の大事なところで、この番組の本質は“家族のドキュメンタリー”だと思うんです。普段は忘れてしまっている家族のありがたさに気付く。当時から核家族化は始まっていましたが、われわれスタッフは、出演者の皆さんにそんな貴重な時間を楽しく過ごしてもらうことを何より大切にしていました。それともう一つ大事にしていたのは、人は歌を歌うと楽しい気分になれる、ということ。歌って素敵だよね、楽しいよね、という喜びと、家族の絆。この2つは、どんなに時代が変わっても変わることはない。これはテレビエンターテインメントの本質だと思うし、当時からこだわっていましたね。
あの番組のトークって、欽ちゃんが何を聞くのか、ゲストがどう答えるのか、話がどう飛んでいくのか誰も分からないんですよ。今では全てのカメラの映像をデータ化して、それを後から編集できますけど、当時は一つの映像しか保存できないので、その瞬間瞬間の表情を見逃さずにしっかり拾わなければならない。だから収録は毎回、生放送のような緊迫感がありました」