愛することができる人は立派なのか?
これまでに述べてきた慈悲の観点に照らして見た時の所謂男女の愛は、もう少し煩悩に満ちたものであるだろう。男女の愛は受動よりも選択である。この人を愛するという意識的な選択であると同時に、譲歩や欺瞞も随伴する。その人と一緒にいることによって顔を出す、ひとりでいる時とはまた別の「自分」というものを肯定し、期待を寄せ、励まし、育て、分別を説き、そして縋(すが)る。そういった類のものが愛であるとわたしには見える。現世の命を燃やす意義を他者との関係性にあえて見出す行為とでもいえようか。
愛とは――必然でも何でもないものを、まるで以前から欲していたかのように過去を修正して自らを導く航路であり、無事にその船が港に入るのを見届けつつ、明かりを絶やさぬようそこにランプを掲げておく習慣である。相手を思い、気に懸ける己の行為の積み重ねが愛というものになる。愛は選択であるのに必然であるという表明を我々に迫る。愛こそは他の欲望とは異なる次元で己の存在を証明してくれるものだからである。
愛することのできる人が立派な人間とは限らない。人間が自分自身の狡さを知れば知るほど多く喜捨(きしゃ)をするように、その分多めに愛情が投げかけられることもある。それを知りつつ喜捨を受け取る行為もまた、愛することへの希望を受け取るのを拒まず、それに期待してみせるという意味において、欺瞞的態度なのかもしれない。
人を愛さないのに、愛させる能力に長けた人間というのも存在する。時折、どうしてこんな人が多くの人の心を掴めたのか、と思われるようなニュースを目にすることがあるだろう。そうした人々は、その他の能力や容姿がどんなに平凡あるいは劣っていたとしても、運命や必然といったものを信じさせる飛び抜けた能力を持っているのだろう。人々の根源的な願望であるところの孤独から救われる運命を、今ここで掴みかけているのだと納得させることができる人物である。そうした欺瞞的能力を所構わず悪用すれば、時に大きな悲劇が起きる。
人々の愛する姿を眺めてきて思うことは、人は愛し方をよく知らないのに愛さずにはいられないということである。それはなぜだろうか。これまで、愛への渇望は人間の根源的な孤独から生じるということを、形を変えながら繰り返し述べてきた。愛への渇望は、壮大な叙事詩のような愛の「物語」を生み、駆け引きで自らを偽装して愛させるための数々の指南書を世に量産させ、また修養のように教訓めかした書物を紐解かせる。こう生きよ、こう愛せよ――。それは愛がおそらく相手についてではなく、自らについて語り、理解するプロセスだからである。
エーリッヒ・フロムは著書『愛するということ』で、愛について経験主義的に多くの重要なことを語ったが、なぜか「報われぬ真の愛」というものが存在する可能性を退けている。彼にとって、愛することは「信念」の領域の問題だからである。自らの弛みなく愛する姿勢によって、他者にも真の愛を呼び覚まし、相互に深いところで結びつくことができるという信念。この本の原題がThe Art of Loving(愛の技法)であることは見逃せない。つまり、フロムは愛という概念を様々に分類して例を挙げながら論じつつも、本質的には「愛し方」について語っているわけである。
彼のいう愛する能力を纏めると、以下のようである。客観的かつ理性的であり、個として自立している人間が、外界へ向かって自らを開き、その働きかけが生産的な行為でありうるということを強く信じる。愛が可能であること、つまりパートナー同士がより深いところで繋がり合えるということを信じ、真摯に、能動的に、利他的に生きようとする。――その結論自体には何の異論もないのだが、それはやはり「人を愛し世界の可能性を信じる私」という生き方に過ぎない。素晴らしい人間像、伴侶像はあるものの、生き方の助言と大して変わるところはないのである。
愛の衝動があることを認めたうえで、自由な個人同士の理知の働きによって愛を高次元のものに高めていこうとする考え方は、やはり西洋近代主義に属している。フロムは、単なる功利主義でも夫婦間のロールプレイでもなく、より深い精神生活において愛を実践せよと説いている。それは、「自由」が与えられた後の人間がいったい何を望むかという点において、人々を決して手放しで信頼することができなかったユダヤ系難民のフロムだからこその視点だろう。
そうした態度は、やはりどうしてもキリスト教・ユダヤ教的なものにならざるを得ない。こうした考えが素晴らしい魅力を持っていることはもちろん認めるが、その非常に倫理的な行動の発露が「愛」なのかといえば、それもどこか納得のいかないところがある。
愛とは、己が生きることへの渇望そのものを転化させた欲求ではないだろうか。愛が執着に転じがちであるのは、それが聖なるものではなく渇望だからである。愛したいという衝動は、己が生きたいという渇望を通じて自己愛と関わっている。であるとするならば、愛とは果たして利己主義なのかという疑問が出来(しゅったい)するだろう。答えはYesでもありNoでもある。愛とは限りなく己のためのものでありながら、なおかつ自らに善きものを見出そうとし、世界の可能性を信じようとする希望だからだ。徹頭徹尾、己に即していながらも、その器を広げて外に我と我が身を開く行為でもある。愛は、現世に属する喜び苦しみの象徴の一つである。
自分を愛することができるのかどうか。そのギリギリのところに立ちながら、人は他者を愛することができるか否かを悩む。その問いは、この人に己を認めさせられるか否かということでもあろうし、この人に己を委ねられるか否かという問いでもある。だが、その答えが仮に「然り」であったとしても、愛は死にまで打ち勝つことはない。死とは人が生の喜びや苦しみから解き放たれ、滅することだからである。傍らに死の匂いを嗅ぎながら、人は苦しみの中で生を輝かせようとし、愛する。つまるところ、人は死ぬからこそ愛するのである。
人を愛するということ
初めの問いかけに戻ろう。わたしはその時、その人を愛していたのか、という問いである。幼い頃から死を意識する人間であったという観点に照らせば、それは生を燃やそうとする愛であったといってよいのかもしれない。だが、わたしの性格における根源的な客観性に照らして考えれば、やはり慈しみであったのかもしれない。
誰かに身を委ねられるということ、誰かの生きる希望であるというのは、それはそれで大変なことである。祈ることは簡単でも、祈りの対象であることは難しいように。恋の駆け引きを永遠に愉しめるほどにまでわたしは主観的な人間ではないし、根が案外真面目なのだと思う。だから、どこまでいっても刹那の衝動を除けば、受動的な愛と慈しみしか与えられない人間なのだろう。
誰かを好きでいる気持ちは持っていたいと思う。けれども恋愛は年々難しくなる。多くの浮き浮きとした恋愛には、人を見通す力などない方が良い。わたしを、能天気なのが強みだと褒めた友人がいた。彼らしい独特な言い回しだが、言葉を換えれば現実世界から遊離しているということだろう。だが、わたしにはわたしの悩みがあり、苦楽がある。それが他人とは少し違う並び方をしているということにすぎない。
恋愛の喜びが理知の欲求に優ることは、その刹那にしかなかった。もちろん愛のある人生は素敵なものだ。ただ、ごく何でもないもの、焼き立てのパン、街角の珈琲の匂い、雨上がりのグラウンドに差し込む光、今年初めての霜を踏んだ音、雪の結晶に覆われたまだ赤い紅葉、ランドセルを背負って元気にバスに乗り込んでくる子どもたちの一団、そうしたものが幸せだといえるのは、偏にわたしのなかにすべての世界があり、そして世界がわたしを通り過ぎてゆくからである。
幸せは、生きることの根源的な悲しみを打ち消してはくれない。けれども、そこに癒しを与えてくれるものである。他者に身を委ねて精神がぼうっとするだけの束の間の幸せでも構わないし、しみじみとした美しさや味わいもまたよい。生を輝かせるものは何であれ、わたしたちを幸せに導く。そう考えると、人を愛するということは、その愛自体が移ろっていったとしても、潮の満ち引きのように地表を撫でていく終わりなき律動であって、生きている限り孤独に回り続ける地球を見守る月がそこに寄り添っている証なのだろう。
1980年、神奈川県茅ヶ崎生まれ。山猫総合研究所代表。東京大学農学部卒業後、同公共政策大学院及び同大学院法学政治学研究科修了。博士(法学)。東京大学政策ビジョン研究センター講師などを経て現職。主著に『シビリアンの戦争』『21世紀の戦争と平和』『孤独の意味も、女であることの味わいも』などがある。2017(平成29)年、正論新風賞受賞。
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三浦瑠麗エッセイ連載「男と女のあいだ」