
プロフィギュアスケーターの浅田真央が、5月8日にLeminoで配信された「NumberTV」の第20回に出演。世界選手権を3度優勝、グランプリ(GP)ファイナルを4度優勝と、華々しい成績だけでなく、誰からも愛されたスケーターだった浅田。しかし、その輝かしい成績の裏では、夢の舞台で立ちはだかったライバルや、集大成として臨んだ舞台でのまさかの結果など、数々の“挫折”があった。今回、浅田が「スケート人生の中で一番のどん底」と語るソチ五輪のショートプログラム(SP)と、後に伝説となる同・フリーの演技を振り返った。(以下、ネタバレを含みます)
姉の浅田舞をライバルにスケート道を歩み始める
同番組は数々のアスリートのドラマを伝えてきたスポーツ総合雑誌「Sports Graphic Number」とLeminoの共同プロジェクトによって誕生した、トップアスリートの人生にフォーカスを当てるオリジナルドキュメンタリー。
5歳のときに姉・舞と共にフィギュアスケートを始めた浅田は、姉をライバルにスケート道をまい進。浅田は「常に姉を超えたいと思ってずっと練習してきたので、姉がいなければここまで来ることはできなかったと思います」と述懐し、「母親がすごく一生懸命に全てを懸けてくれていたので、そういう意味では本当に母親にも感謝です」と明かす。
姉の背中を追って練習に励む浅田は、次第にその才能を開花させていく。2000年に全日本ノービス選手権Bクラスで優勝し、小学5年生から山田満知子コーチに師事すると、飛躍的に実力を付ける。そして、小学生のうちに女子では過去数人しか成功していない大技・トリプルアクセルを習得。浅田は「小学6年生のときはまだ回転不足だったんですけど、試合で跳べたりとか。当時その年齢で跳べる選手がいなかったので、だんだん14歳とか15歳になるにつれて、憧れのシニアのスケーターの皆さんと一緒に試合に出られるようになって、『自分が挑戦者としてどこまでお姉さんたちに太刀打ちできるんだろう』っていう気持ちが芽生えたことで、(それまでとは)違ったスケートの楽しさっていうのを感じました」と振り返る。
トリプルアクセルという唯一無二の武器を手に、2005年にはジュニア選手でありながらシニアの強豪がそろったGPファイナルに出場し、初優勝。“天才少女”は15歳で世界女王となる。2006年のNHK杯では当時歴代最高得点である199.52点をたたき出して優勝、2008年にはけがを押して出場した世界選手権でも優勝を果たすなど順風満帆に見えていた中、オリンピックを翌年に控え、連覇を目指して挑んだ2009年の世界選手権では、シニア転向後初めて表彰台を逃してしまう。
“キャリアの集大成”としてソチ五輪に臨む
負けを経験したことで今まで感じなかったプレッシャーを感じるようになり、成長に伴う体の変化で思うようなジャンプが跳べなくなった浅田は「ただただ楽しいだけではスケートができなくなってしまった…」と吐露。ジャンプが跳べなくなり、バンクーバー五輪の出場も危ぶまれたときもあったが、何とか自分を取り戻すことに成功し、夢の舞台であったオリンピック出場を果たす。バンクーバー五輪では、女子選手史上初の1大会で3度のトリプルアクセルに成功するが、金メダルはライバルだったキム・ヨナに譲り、銀メダルに止まる。
4年後の金メダル獲得のためジャンプの修正に挑み始め“我慢のとき”に突入した浅田は、最愛の母の死という試練に見舞われる。そんな多くの壁を乗り越え、2013年の四大陸選手権で優勝、同年のGPファイナルも制し、キャリアの集大成としてソチ五輪に臨む。好調の中で迎えた2度目のオリンピックという舞台だったが、SP冒頭のトリプルアクセルで転倒。SP終了時16位となり、4年間抱き続けてきた金メダルへの思いはたった1日で霧散してしまう。
「スケート人生の中で一番のどん底」と告白する浅田は、「最初のアクセル(失敗)の自分の中の衝撃が強くて…。ショートのトリプルアクセルがメダルに向けての一番のキーポイントになるというのは感じていたので、緊張の中でそれを失敗したことによって緊張がさらに強くなってきてしまって、いつもの自分のリズムが取れないまま終わってしまった」と漏らす。





























