局アナからフリーに転身。その決断の裏には“アノ人”の影響が
——2006年に読売テレビに入社し、2015年に退社されるまでの10年間の局アナ時代で、印象的なお仕事を教えてください。
一つに絞るのはなかなか難しいのですが、「情報ライブ ミヤネ屋」(毎週月曜~金曜昼1:55-3:50読売テレビ)のMCをやせてもらい、宮根(誠司)さんと出会えたことは大きかったですね。その後、会社を出て、フリーで挑戦するきっかけにもなりましたし。
——「ミヤネ屋」で司会をされていたときは、どんなことに重点を置いてお仕事されていましたか?
お昼の2時~4時というのは、緊急の会見が行われたり、裁判の判決が出たり、世の中のいろいろなことが動く時間帯なので、生放送ならではの対応を求められることも多いんです。そこで臨機応変に対応できるような準備は心掛けていました。画面に映っていないところで動いているのが局アナであり、番組をスムーズに進めるためには、見えないところでのアナウンサーとスタッフの連携が本当に大事なんですよね。だからこそ、スタッフとの信頼関係を築いておくことが重要だなと感じました。信頼していないと、パっと差し込まれた原稿をそのまま読むこともできませんから。
——チームワークを高めるために、心掛けていたことはありますか?
元々、「ミヤネ屋」のスタッフがいる報道フロアに私個人の席はなかったんですが、席を作ってもらい、普段から出社したらその席へ行き、朝からずっとスタッフの動きをチェックしていました。見ていると、予定とは変更になりそうな部分や、新しいニュースが入りそうだなと予測ができたり、自分で調べたりもできます。“一緒にいる”というのは、とても大事なことだったと思います。
——「ミヤネ屋」という人気情報番組でMCを務めることにはプレッシャーも感じられたのでは?
最初は何をやってもうまくいかず、毎日悩み続けて、毎晩、夢に宮根さんが出てくるぐらい(笑)。宮根さんに怒られる、みたいなことは全然ないんです。ただ、求められているものが何か分からなかったり、速いテンポについていけなかったり。たくさんフリップも用意されているのに、どれを出せばいいか分からないみたいな、おろおろしてしまうことも多かったです。でも、徐々に慣れていき、宮根さんとアイコンタクトで進められるようになってからはだいぶ楽しくなりました。そうなるまでには1年ぐらいかかったと思いますが。
——宮根さんとご一緒されて学んだこと、得たことも多そうですね。
宮根さんは仕事だけではなく、プライベートも全力投球される方。例えば、東京マラソンを走られた際には“4時間30分を切る”という目標に向かって毎日練習されたり、大好きなプロレスに挑戦したいと思ったらプロレスラーの下に通って、本当にプロレスデビューを果たしてしまったり。とにかく全力なんです。それを見て私も、仕事はもちろんですが、まだやったことのないことに挑戦してみたいと思うようになってきました。それが結果、フリーに転身するという決断にも繋がるんですけど。
——読売テレビを辞められる前には、宮根さんにも相談されたんですか?
一番最初に相談しました。ただ、当時はまだ自分の中でもフリーになってやりたいことが固まっていなかったんですよね。話を聞いてくださった宮根さんからも「もう少し局で頑張ってみてもいいんじゃない?」と助言をいただき、よくよく考えてみたら、たしかにまだ気持ちもグラグラなのに会社を出ようとしているのは違うかもな、と思えてきて。そこから1年以上、局に残り、仕事を続けました。
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