あぶない言語化:エッセイ/小林私「私事ですが、」
美大在学中から音楽活動をスタートしたシンガーソングライター・小林私が、彼自身の日常やアート・本のことから短編小説など、さまざまな「私事」をつづります。
ことばの意味をその指示対象と同一視する、外在主義的な立場を採用するひとつの大きな利点は、それにより言語の公共性を直接的に担保できる、というところです。
出典:和泉悠『悪い言語哲学入門』p.066 ちくま新書
ここ最近、言語化の上手さを褒められることが多くなった。
恥ずかしながら、それから考え始めたことだ。
言語化。つまり"漠然とした不安"に名前を付ける行為は、感情の置き場を与えたいという欲求によるものだ。
他に例を挙げると、「なんとなく足が痛い気がする」が筋肉痛なのか、肉離れなのか、はたまた骨折なのかでは問題がまるで違う。正しい診断を受けて療養すべきだと誰もが思う。
感情も同じで良いのだろうか、と近頃は考えている。
学生時代に見た作品で、ルービックキューブのような四角い見た目で、側面にいくつか配列されたボタンを押すと光る。ただし光るのはそのキューブと無線で接続された他のキューブだ。
制作者はこれを会話と言った。私は「言葉を用いていないコミュニケーションは正確性を欠くのではないか」と尋ねたことがある。
制作者は「言葉を用いたからと言ってそれが正確であると感じるのは奢りだ」と、そんなことを答えていた。私は未だにこの返答には懐疑的だ。
だって「明日14時集合」と伝えたいときにキューブを光らせてどうする。この光り方はこの意味に対応して、などと決め始めたら、それはもう言語だ。
無論そういった具体性のある会話でなく、漠然としたコミュニケーションツールとしての作品だったとは思うのだが。
私は自分が何故懐疑的なのかを考え、出た一つの答えは、
自分の気持ちに名前が付くと安心する、というものだった。
AでもBでもなかった感情に、Cという名が付けば、以前よりも簡単に同士が見つかる。
「私は、AでもBでもなく、かといってC...というわけでもないんですが、うーん、なんといったらいいのかな」
ではなく、
「私は、Dです。あら、あなたも」
と、こうなる。
EからZまでも同様、そこから外れればまたA1、A2、A11、と続き、「BとPとX、少しだけCも」「それはG34だね」といったふうに居場所が見つかる。それは素晴らしいことだ。
己の立ち位置は明瞭でありたい、己以外が己以外として存在する以上。
世界を区別するために言葉はあるのだ。
『はじめアルゴリズム』という漫画のなかで、数学という概念をおよそ知らずに数学を始めた、はじめという少年が問う。
「右と左ってもともとあると思う?」
「何もない空間があったとするでしょ」
「そこに線を引くから左右ができる」
(中略)
「僕が分けるから世界はこう見えている...?」
「だとすると.........」
「もともと世界は分かれていないんじゃないか?」
出典:三原和人『はじめアルゴリズム』第3巻 講談社
また、『四角形の歴史』では、こう書かれている。
人間の描いた一番古い絵は、アルタミラやラスコーの洞窟の壁に描かれている。そこに描かれているのは周りにたくさんいた動物たちで、人間自身は描かれていない。風景もぜんぜん描かれていない。
人間は四角い画面を持つことで、はじめて余白を知ったのだ。その余白というものから、はじめて風景をのぞいたらしい。
出典:赤瀬川原平『四角形の歴史』P46,54 ちくま文庫
いずれにせよ、世界の分断によって我々はものを認識している。海から掬い上げた水は手の平の中でまだ海と呼べるだろうか。いや、それは水だとか、海水だとか、少なくとも、それも海だと呼ぶことはない。例外があるなら恋をしている時だけだ。
言語化を褒められるときには「まだ誰も言葉にしていなかったもの・こと」に「単純明快な表現」を与えた「功績」といったニュアンスを感じる。
例えば「ヤバい」や「エモい」の功績は凄いと思う。「なんだかすげ~激しくて嫋やかで危なくて強くて弱くて感情を揺さぶってきていとをかし」という気持ちをヤバい、エモいと言える。感情の速達。
これを語彙のない人の感情表現だと言う人は今や少ないだろうが、一応私が賛同する理由も書いておく。(何故なら「エモい」に関しては長らく私も忌避していたから)
「ヤバい」「エモい」には余地があるのだ。
公共の場で何か勧めてくれと言われたときに「なんつーかヤバいんすよ! めっちゃエモくて!」とは私は流石に言わないし、どうかと思う。が、日常会話で「あのアニメは凄い。何故ならあの舞台設定にこういった台詞が噛みあってそれは歴史的に見ると...」と話してしまったら、勧めている相手の鑑賞体験をむしろ損なうのではないだろうか?
「これはヤバいよ、とにかく見てみそ」と言うだけの方が、何をヤバい・エモいと感じたかが分からない。具体性を欠く分、押しつけがましくない感じもする。
「ヤバい」「エモい」は言語化から逃れるための言語であると思っている。
閑話休題。
『言葉にできない想いは本当にあるのか』のはじめにこういうことが書いてある。
自分の感情を他人に伝えるために、人類が発明した非常に便利な道具が「言葉」である。言葉という道具はあまりにも便利すぎて、ともすれば忘れてしまいそうになるけれど、私たちが言葉を使って表現しているのはいつだって「感情の近似値」にすぎない。その意味で、言葉は常に大なり小なり誤差を孕んでいるものではないかと思うのである。
出典:いしわたり淳治『言葉にできない想いは本当にあるのか』p.004 筑摩書房
そう、言葉とはあくまで感情の近似値だ。しかし私はこうも思う。言葉によって意思の方向性がある程度確定してしまうのではないか?と。
『天才による凡人のための短歌教室』では、短歌を書く振る舞いのひとつとしてこう触れている。
思いついたアイデアは頭のなかの黒板に書いておいて、なるべく文字として紙に落とさない。文字として紙に落としてしまうとそれは固定されて自由な発想に制限をかけてしまう。(中略)時の洗礼と熟成を与える。文字を与えるのはそれからでも遅くはない。
出典:木下龍也『天才による凡人のための短歌教室』P54 ナナロク社
言語化とは、意思に公共性を与えることだ。自分はこう思う、君たちはどう思う? また、賛同者はいるか?という欲望の発露である。
昨年だったか、有名な心理学・行動経済学の研究論文がことごとく追試に失敗したというニュースを見た。私はその幾つかの研究を知っていて、さも正しいという風に疑っていなかったから驚いた。
「マシュマロ・テスト」や「スタンフォード監獄実験」といった研究・実験には共通点がある。
なんだか痛快で面白い、という点だ。
これらはいつまでも再試や査読の要求される”研究”だ。ゆえに後に覆ることもある。
ただ、感情はどうだろう。
痛快で面白い、ざっくり納得感のある言葉。これが近似値であったからといって、その誤差を振り返る人はそう多くないだろう。悪口などは良い例だ。言われた側からすれば的外れでも、それを見る側からすれば、言い得て妙で巧緻で痛快だ。言ってやった感さえあればそれで心地がいいのだ。
その言葉が初めは近似値であっても、目に耳にし、使い続ければ、感情はむしろ言葉によって象られていく。
もとより不定形な感情を、言葉によって掬い上げ、分断し、象徴する。
言語化にはそういった危うさがある。
歌詞を書いて原稿を書き、時折呟いて、ラジオで話して、配信で喋り、また思い出したように呟く。言語化に次ぐ言語化。
この文章もまた言語化の産物であり、私の暮らしは言語化という名のアウトプットに溢れている。また、インプットする本や、漫画、映画やアニメも当然、誰かの言語化のアウトプットだ。
読書は思索の代用品にすぎない。読書は他人に思索誘導の務めをゆだねる。
出典:ショウペンハウエル『読書について 他二編』「思索」より 岩波文庫
言語化からは逃れがたい。しかしその魅力にすっかり陶酔してしまっているのも、また事実だ。
我々は言語化をするなかで、誰かの思索に誘導されていて、そして誰かの思索を常に誘導しているのだ。
この危うさを痛快に伝える言葉はあるか。
https://ddnavi.com/serial/kobayashi_watashi/
小林私(こばやし・わたし)
1999年1月18日、東京都あきる野市生まれ。
多摩美術大学在学時より、本格的に音楽活動をスタート。
シンガーソングライターとして、自身のYouTubeチャンネルを中心に、オリジナル曲やカバー曲を配信。チャンネル登録者数は14万人を超える。
2021年には1stアルバム「健康を患う」がタワレコメン年間アワードを受賞。
2022年3月に、自らが立ち上げたレーベルであるYUTAKANI RECORDSより、2ndアルバム「光を投げていた」をリリース。
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