「呪詛」はなぜ観賞後も恐怖が増幅して続くのか
「呪詛」のクチコミで多いのが「見終わったのに、ずっと怖い」「自分まで呪われたような気がする」というものだ。そして、その”台湾最恐"といわれる恐ろしさが、この映画の見どころともなっている。
日本のホラー映画の名作「リング」の貞子や、「呪怨」の伽椰子のように、恐怖を象徴する怪異、幽霊、キャラクターは一切出てこない。終始、実態を伴わなず得体のしれない「呪い」だけがあり、目を覆いたくなるような犠牲者が続出する。恐怖はすべて「人」から伝播する。ではなぜ、「呪詛」の恐怖はそんなにも後に引きずるのだろうか。
ルオナンの身に起きた災厄は、突然の天変地異やゾンビの襲来のような「自分は何も悪くないのに、恐ろしい事態に見舞われた」という巻き込まれ型の被害ではない。超常現象や怪奇と謳える映像を撮りに、入ることが禁じられた宗教施設に”わざわざ”侵入して呪われたのであるから、自業自得の部分が少なからずあるだろう。
あんなところに行かなければよかったという後悔に折り重なるようにルオナンにのしかかるのは、「自分のせいで、何も悪くない娘が呪われてしまった」という罪悪感だ。ネタバレになってしまうのでくわしくは本作を実際に視聴してほしいのだが、彼女は「娘にまで呪いが降りかからないようにする」あるいは「娘の呪いを解く」ルートがあったにもかかわらず、ことごとく悪手を打ってしまうのである。
深い後悔、罪悪感、絶望におそわれながらも、ルオナンが何とか娘を救おうとする姿には母としての強い愛情がにじむ。だからこそ、見ているこちら側も彼女を応援しながら見ていくことになるのだ。だが、彼女を応援して、没入して見ていくほどに、この「呪詛」という作品の恐怖は増す。
そして、作品を見終わってなお終わらない恐怖のなかで、ふと、ルオナンと同じく私たち自身も「ただ巻き込まれてしまった」のではなく、好奇心や怖いもの見たさで「この映画という恐怖に自分から飛び込んだ」のだと気付く。禁忌に自分から近づいてしまったという後悔が、観賞後の恐怖をよりいっそう長引かせるのかもしれない。
<ザテレビジョン 映画部>