出演作品は約300本 生誕100年を迎える高峰秀子さんが駆け抜けた、昭和の大女優&名文筆家としての軌跡
2024年3月27日(水)に生誕100年を迎える高峰秀子さん。日本の銀幕史に残る名作を多数残した昭和の大スターだ。そんな彼女の生誕100年を記念した特集がCS衛星劇場にて3月に放送される。日本映画初のカラー長編「カルメン故郷に帰る」(1951年)や木下惠介監督の代表作「二十四の瞳」(1954年)など、高峰さんの魅力が詰まった傑作を一挙に楽しめる貴重な機会となっている。
5歳で見出され、シャーリー・テンプルと比較される名子役に
生涯で300本を超える作品に出演した日本映画界の大スターであり、女優引退後はエッセイストとして26作を著した高峰さん。その生涯は、天賦の才に恵まれたことがよくわかる逸話に満ちている。
1924年、北海道函館市に生まれ、5歳の時に実母が亡くなり、叔母に引き取られて東京へ。その後すぐ、たまたま見学に行った松竹鎌田で飛び入り参加したオーディションで見出され、「母」で映画デビュー。たちまち人気子役として引っ張りだこに。その人気ぶりは、ハリウッドの名子役シャーリー・テンプルとも比較されるほどだったというのは逸話の1つだ。
13歳で東宝に移籍し、「綴方教室」「馬」といった少女期の傑作に出演。「銀座カンカン娘」(1949年)では共演した笠置シヅ子とともに主題歌も歌い、歌唱力の高さまで証明している。
“五社協定”飛び越え日本映画界をけん引 引退後は文筆業で活躍
26歳で半年間渡仏した後は、映画会社に属さないフリー女優として活動。木下惠介監督による松竹作品、成瀬巳喜男監督による東宝作品を含む各社の作品に出演した。
専属監督・俳優の引き抜きを禁止する“五社協定”が厳格に守られていた当時にあってこれは異例中の異例だったが、それを可能にしたのが女優としての豊かな才能。映画毎日コンクールで4度女優主演賞に輝いたのをはじめ、多数の賞を受賞していることからも、その一端がうかがえる。
1979年、55歳で出演した「衝動殺人 息子よ」を最後に女優引退を宣言すると、その後は文筆業に専念し、エッセイストとして活躍した。5歳から子役として多忙を極め、小学校に1カ月しか通えなかったにもかかわらず、「わたしの渡世日記」(1976年)で、すぐれた随筆に贈られる日本エッセイスト・クラブ賞も受賞している。