長らくテレビを見ていなかったライター・城戸さんが、TVerで見た番組を独特な視点で語る連載です。今回は『永野と見る怖いコント』(テレビ朝日)をチョイス。
恐怖と笑いは紙一重『永野と見る怖いコント』
私はホラーもお笑いも大好きだ。そのふたつが組み合わさったとなれば、これは非常におトクな話である。『永野と見る怖いコント』は、まったくその名の通り、怖いコントを永野と見るという番組だ。『ルスデン』や『ダンボ君』など有名どころが並ぶ中、今回紹介されるのは『砂浜店長』。これは私も大好きな、かもめんたるの傑作コントである。怖いって言われてるのはちょっと驚いたけども。具体的にどう怖いのだろう。
この『砂浜店長』、おそらく怖いコントとして紹介されるのを了承したうえで改めて演じられたものだと思われ、恐怖の側面が若干強調されているものの、やはり怖いというのはよく分からない。ホラーとしてのあるある(クリシェと言ってもいい)を笑いとしていじったときに、それが溶け合わず異物としてそのまま残ってしまうことが多々あって、その異物感が「怖い」と表現されている状況なのではないかと思う。ホラーではもはや定型化している”悪魔祓いの儀式”(悪魔じゃなくたって何だっていい)をそのまま引用しつつ、独自のアイデアを、あくまで笑いとして付与するのはごくまっとうな態度。”店長の身体に入る”という事実は確かに倒錯的だが、入った本人の”気持ち悪い、気持ち悪い”と駄々をこねるように嫌がる反応はお笑いだ。一種のマジレスというか、事実だけで十分怖いのに、「確かに人の身体に自分の意識が入ったらめっちゃキモいよな」という、冷静で現実的な視点まで戻してくれる。これは笑いがきっちり担保された作劇上のアイデアで、思わず羨ましくなってしまう流麗さだ。私にはどうしても、恐怖がすべて笑いのために設置されているこの『砂浜店長』を怖いコントと言ってしまうのがはばかられる。
じゃあ怖いコントって何なのよと言われてしまうと、これもよく分からない。お笑いに限らず、ホラーというものが一体どこに存在しているのか、たまに考えてみるのだけども、分からないのである。クリエイターたちは皆、手を変え品を変え、恐怖というものをあらゆるメディアで表現してきた。でも、ホラーというジャンルで担保される恐怖というものは、一体なにで、普段はどこにあり、どう醸成されるのだろうか。どうしてホームビデオの汚い画質を怖く感じる?どうしてその恐怖を大勢で共有できるのだろう。不思議だなあ。
ちなみに、いわゆる”怖いコント”と言われるものの中で一番好きなのは、番組内でも紹介されていた『ルスデン』ですね。バナナマン。面白すぎ。あと最後に余談だが、幼少期、『サイレン』の実写映画版のCMがとにかく怖くて、流れるたびに悲鳴を上げていたのだけど、その映画にココリコの田中が出演していることを知った途端、一気に怖くなくなった。ココリコの田中が出てるなら大丈夫だろう、という謎の安心感があったのだ。その安心感を言語化することはできない。単に「お笑い芸人がまさかこちらを怖がらせてくることはないだろう」とでも思っていたのかもしれない。同じような思い出として、『日本のこわい夜』に収録されている、中村義洋監督『くも女』の冒頭、人気のない夜道を走る車を捉えたロングショットに、『遠藤章造』とクレジットが表示された瞬間に大笑いしたこともある。なるほど。恐怖と笑いは紙一重。しかし、恐怖とココリコは正反対なのだ。