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【連載】三浦瑠麗が「夫婦」のあり方について問う連載「男と女のあいだ」 #2 母の自己犠牲という神話について

2024/08/14 18:00


21年間の結婚生活を終えて感じることは、結婚はたしかに自己犠牲を伴ったが、けっして悪いものではなかったということだ。わたしが間違っていた点があるとすれば、むしろ与え続けることで他人に影響を及ぼし、他者を変えようと考えたことかもしれない。与えた人、頑張った人はその経験から失うものはない。しかし、与え続けたからといって相手がそれで人生に満足するとは限らないし、相手にとって自分がまるでその人の一部のように境界が不分明になるのも困る。
家族に危機が訪れた時、降ってきた深刻な事象をただ受け止め頑張ることのほかに、わたしは咄嗟の立ち居振る舞い方を知らなかった。季子と同様に根が江戸っ子的である所為だろうか。ただ、気風だけでは済まないこともある。それが男と女のあいだに横たわる深い海溝である。

わたしは彼を甘やかしたのだろう。それは、慈しみ諭せば人は変わる、変えられるという期待を伴うものであった。しかし、他者はあくまでも他者にすぎない。子どもさえ思うようにはならないのだから、独立した人格に対しては本来、友人としての距離を保ちながら助言をし、誠意を示すことしかできないのだった。夫婦の破綻に一方的な非というものはない。他者は常に在るように在るのでしかないからだ。
海溝を見てしまったからといって、さほど毎日の行動が変わるわけではない。事件後の癒しはむしろ、母として立ち働くことにあった。今年の母の日は、娘と共に棘だらけの蔓と藪を鍬で掘り起こし、草刈りをしながら背中や太腿が筋肉痛になるまで庭仕事をした。高原ならではの気候の、涼しげによく晴れた日であった。そのあと、疲れた身体に沁みるような蜂蜜入りの檸檬水を作って休憩し、夕方になって母とLINEで会話をした。母もまた、その午後はわたしが先日持っていった宿根草の苗を植えていたのだという。数百キロを隔てた実家の庭で。それだけで心が明るくなった。

母であるというのは、目覚めてその日一日を相も変わらず生きようとすることであり、生きさせようとすること。赤子は放っておいたら死んでしまう。成長期の子どもにはたくさん食べさせなければいけない。それを誰かが日々弛みなく繰り返してきたから、わたしたちはこの世に生きている。
母親の無償の愛、妻の自己犠牲の神話ゆえに、かえって自分にはできないと思って結婚や子育てから遠ざかる人は出てくるだろう。現に結婚数は減っている。けれども、その努力は別に神がかったものではない。限られた選択肢、与えられた状況の中で、その母親がその人なりに頑張り続けたということでしかない。
母に感謝するというのは、感情と労働の双方において受けた負債を意識することである。先日、娘がふと「ママがいたから、ママが育ててくれたから私は生きてきた」と言った。その言葉がじんと重たかった。無償の労苦を受け取ったことに対して子どもができることは、自分の子どもに同じものを与えることのみである。それでも、先日の庭仕事のように母子が同じ目線で並び、立ち働いてみることが贈与と負債のやり取りを和らげ、癒してくれることがある。そうして引き継がれる献身は終わりの見えない螺旋階段のようで、常に先へ先へと受け渡されるからこそ、絶えることがない。

反対に、向かい合う男と女のあいだにはいつも海溝が開いている。過ぎ去った時間がそこに溜まっていく。庇おうとしたことも、救えなかったことも、自分の理解を超えていた事どもも、別れようと留まろうとすべて終末においては面影でしかない。過去は帰ってこない。ゆえに美しく哀しい。わたしたちはそうやって常に期待を胸に、他者と邂逅(かいこう)するのである。

この記事はWEBザテレビジョン編集部が制作しています。

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三浦瑠麗
1980年、神奈川県茅ヶ崎生まれ。山猫総合研究所代表。東京大学農学部卒業後、同公共政策大学院及び同大学院法学政治学研究科修了。博士(法学)。東京大学政策ビジョン研究センター講師などを経て現職。主著に『シビリアンの戦争』『21世紀の戦争と平和』『孤独の意味も、女であることの味わいも』などがある。2017(平成29)年、正論新風賞受賞。

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Instagram:https://www.instagram.com/lullymiura

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