CS専門チャンネル「ムービープラス」では、名作「ローマの休日」の日本公開70周年を記念して“特集:オードリー・ヘプバーン”を8月17日(土)、18日(日)に放送する。2024年は生誕95年の年でもあるオードリー。1993年に病のため63歳で生涯を終えたとき、世界中が悲しみに包まれた。「ローマの休日」で演じたヒロインのように、まさしく世界の“プリンセス”的存在だったオードリーの軌跡をたどる。
バレエダンサーを夢見た少女時代
1929年5月4日、ベルギーで生まれたオードリー・ヘプバーン。2024年に生誕95年、没後31年を迎えたが、2019年には生誕90年を記念して制作されたドキュメンタリー映画「オードリー・ヘプバーン」が公開され、多くの人が劇場へ足を運んだことも記憶に新しい。
幼くして両親が離婚し、母に引き取られたオードリーは、母の故郷であるオランダ・ハーネムからイギリスに移り住み、6歳で寄宿学校へ入学し学びながらバレエのスクールにも通っていた。しかし、第二次世界大戦が始まる1939年10歳のころに再びオランダへと戻る。やがてオランダはドイツに占領され、オードリーも過酷な暮らしを強いられた。オードリーは靴にメッセージが書かれた紙を忍ばせてドイツ軍の目を潜り抜けてレジスタンスへと届ける伝言係もしていた。そして、レジスタンス主催のイベントで、子どものころから大好きだったバレエを披露したことも。踊っているときは悲しい状況から逃げられる、そんな思いもあったようだ。
終戦後、設立されたユニセフが女性や子どもたちを飢餓から救う活動をする中で、オードリーもチョコをもらったことを後年、孫娘に幾度も語ったという。オードリー自身も1988年に59歳のころユニセフ親善大使に就任し、63歳で亡くなるほんの少し前まで食糧危機にあったエチオピアやソマリアを始め世界中を飛び回って、子どもたちや母を救う活動をした。幼い頃の経験が原動力になったのであろう。
ミュージカルと映画に相次いで大抜てきされ、スターへ
1948年、19歳のころに再びバレエダンサーを目指してロンドンの有名なランバート・バレエ団で学んだオードリー。しかし、戦争中の栄養状態による体への影響や、何よりもブランク期間によって技術が同級生たちより劣っていて、主役を張れるプリマになることは難しいとされた。
それでも踊り続けることが幸せだったオードリーは、ショービジネスの世界にも足を踏み入れる。生活のため映画の端役をすることもあったが、俳優になるつもりはなかったそう。
ところが、その映画の仕事が大きな転機になる。22歳のころモンテカルロでフランス映画「オードリー・ヘップバーンの モンテカルロへ行こう」の撮影をしていたとき、作家シドニー=ガブリエル・コレットと出会い、彼女の小説「ジジ」を原作にしたブロードウェイ版ミュージカルに出ないかと誘われ、主役に抜てきされた。
ブロードウェイの新星として注目される中、もう一つ大きなチャンスが巡ってきた。ハリウッド黄金期の名匠、ウィリアム・ワイラー監督が新人を探しており、テストに参加することに。そこで、のちの代表作となる映画「ローマの休日」(1953年)のヒロインの座をつかみ、24歳でハリウッドデビューを果たした。
同作で好奇心に満ちたチャーミングな一国のプリンセス役がぴったりとハマり、「第26回アカデミー賞」主演女優賞に輝き、瞬く間にスターの階段を駆け上がったオードリー。それまでのハリウッド女優たちは、セクシーさやゴージャスさで雲の上の存在であるスターの雰囲気を備えているか、あるいは逆に庶民的な魅力で共感を呼ぶかだった。オードリーはそのどれでもない、気品と愛くるしさで世界中の人々を引き付けた。
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