国際政治学者やコメンテーター、そしてエッセイストとしても幅広く活躍する三浦瑠麗氏によるエッセイ「男と女のあいだ」。夫と友人に戻り、「夫婦」について改めて思いをめぐらせるようになったご自身のプライベートや仕事、過去を下敷きに「夫婦」を紐解いてゆきます。連載第6回は、「共感の危うさ」についてお届けします。
#6 共感の危うさ
ふっと気持ちが軽くなった瞬間があった。期待することをやめたときである。若いうちというのは感情のひとつひとつが鮮烈で、あれこれと多くを願っては思い破れ、甲斐なき正義感も強い。それに纏わる負の気分を、子育てに熱中していた頃などはすっかり忘れてしまったつもりでいたのだけれども、人生は単線的に変化していくわけではない。四十の声を聴いてからも、二十代ほどではないにせよそうした気持ちに駆られることがあった。
例えば、なぜコロナ禍であれだけ何かを守ろうとして必死になったのだろうと思い返してみると、やはりあれはまだ精神が若かったのだなと感じる。活動制限でイベントがキャンセルになり、仕事がなくなって食い詰めたり、生き甲斐そのものを奪われて気持ちが荒んでいったりする若い人たちを抱え、何とかできないものかとこちらへ頼みに来られるアーティストや飲食業の人なども多かった。窮状を聞くと、居ても立ってもいられなかった。元々は腰が重い癖に、こうと思い立ったら駆けだす質である。
個人が蒙(こうむ)っている「不条理」は印象が強く、その場で心を捉えがちだ。困っている人を前にして、傍観者では居られないと思った。10年ほど前に独立を志して立ち上げたシンクタンクが、そもそも社会発信や分析による政策支援を目的とした組織だからでもある。
しかし、コロナの異常な何年かが過ぎ去ってふと後ろを振り返ってみれば、それ以外の生き方もあったのではないかと思う。困っている人たちの被害を見ないふりをするというのではないけれども、どこかに籠って何かを書き綴って暮らす道もあったはずなのである。文筆が社会の役にすぐに立つものではないことを自覚して、それでもその時見たこと、考えたことを書き留めておく役割とでも言おうか。あるいは「非常時」とはまるで無関係なことを書くのでもいい。
おそらく、それが人文と社会との機能の分かれ目であるのだろう。人文にも成り切れず、社会の方にも振り切れないわたしは、自らのどっちつかずな部分を大切に思ってきたのだが、だからこそ社会の側に寄りすぎたと思えば、精神の構えを真ん中に揺り戻す必要を感じる。その反動が、今ごろになって来ている。変化を期待しない、人に期待しないことで、自らの生業(なりわい)のペースに立ち戻ることができた。
だからといって、社会に対して共感を失ったのかといえばそういうわけではない。寧ろコロナ禍やウクライナ戦争などを同時代のなかで見てきて、「共感しすぎること」の危うさについて学ぶところの方が多かったということである。
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他者のことを思いやるといっても、ほとんどの場合、人は自己の痛みの延長線としてしか共感を拡げられない。他人の痛みをまるで自分の痛みのように錯覚するからこそ、痛みは騒ぎを引き起こす。いったん誰かの痛みを知覚する。すると人はその痛みの感触に敏感になり、無暗に恐れてはその興奮が周囲に伝播していき、集団の連鎖反応を引き起こす。恐怖や痛みが同じ空間にいる別の個体に伝播するというのは、マウスなど人間以外の生物にも見られる反応のようだが、人間はさらに抽象的なレベルで恐怖というものを理解しており、痛みに関しても想像力を逞しくする。その痛みが、自分とは関係のない事物やフィクションであってもつい反応してしまう。
例えば、映画やドラマは登場人物の痛みや不安、恐れなどを画面上で鮮烈に表現し、観客に伝えようとする。恐怖を呼び起こすようなシーンでは、人はそれが架空の出来事だと分かっていても、思わず身体を固くするなどして物理的に反応する。だから、ましてや現実の物事を扱うテレビのニュースや、YouTube、SNS等を一日中見ていると、そこで話され、報じられている事柄がまるで我がことであるかのように感じてしまうのも無理はない。
1980年、神奈川県茅ヶ崎生まれ。山猫総合研究所代表。東京大学農学部卒業後、同公共政策大学院及び同大学院法学政治学研究科修了。博士(法学)。東京大学政策ビジョン研究センター講師などを経て現職。主著に『シビリアンの戦争』『21世紀の戦争と平和』『孤独の意味も、女であることの味わいも』などがある。2017(平成29)年、正論新風賞受賞。
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