痛みへの共感が、いわばわたしたちに警戒を促すアラートのようなものなのだとしたら、それは物事に対する優先度を変えさせるスイッチの機能を果たしていると考えていいのかもしれない。日常生活の何やかやをいますぐ脇において、「これを見ろ」「これに反応しろ」と要求してくるもの。それが共感である。
とはいっても、世の中のすべての痛みに共感することは不可能だし、自分自身が心身を病んでいる状態で他者に共感するのは難しい。イギリスの作家、ヴァージニア・ウルフはかつて、「病むことについて」というエッセイで、インフルエンザに罹ったときの心境とそこからの学びを綴った(1926年に『ニュー・クライテリオン』に掲載)。曰く、人は健康な時は親切なふりをし、努力し、喜びや悲しみを分かち合おうとする。だが、いざ病気に罹ると一挙に性急で子どもっぽい性格になってしまい、快不快の方が大事になる。熱や痛みに襲われている状態では、世の中における正しさなどというものはどうでもよくなり、「正義の行進」の列に加わる圧から解放されるのだと。
このエッセイは、痛みを感じている人とそれを見ている人とは同一ではないし、両者の心理は異なるということを言っている。こう書くと当たり前のようにも聞こえるが、実はつい忘れられがちな真実だ。ヴァージニアは、世の中のすべての痛みや苦しみに共感して回ることはできないとも書いている。歯痛や頭痛は耐え難いものだが、人々はそれにいちいち同情して回らない。実際、痛みの檻の中に囚われている病人にとっては、いくら同情されても苦痛が和らがないのは当たり前で、共感よりモルヒネの方が百倍大事だろう。
同情とは浅薄なものに過ぎない、と切って捨てることがここでの目的なのではない。たしかに同情も共感も人間らしい心の動きだが、痛みを覚えている他者とそれを見ている自己とのあいだには、本来目に見えない一線が引かれている。共感の波に飲み込まれすぎず、そのことを折に触れて思い出すことも必要なのだと思う。
人は痛みを恐れるがゆえ、痛みの存在自体に敏感になる。勢い、他責へと心を傾けたり、痛みではない何か別のものにそれを転化したりしようとする。同時に、人間は恐怖心や同情に駆られると、モラル上何が正しくて何が間違っているかという、当否の判断を性急に下しがちだ。すると、時には痛みや恐れに対する集団的な反応が人権侵害や暴力の連鎖を呼び起こし、もっと大きな痛みを作り出すこともある。それはそれとして別途一冊にわたって論じるだけの価値があるが、ここではその問題に稿を割くのではなく、初めに述べた、期待しないことという点についてもう少し掘り下げておきたい。
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相手に期待しないこと。それが冒頭に述べたように、公私にわたって人生が楽になった理由だった。人を受容すること、手を差し伸べて社会にリーチアウトすることに心を砕いてきたつもりでいたが、人の面倒を看るという行為がある種「倚りかかり」の要素を含みこんでいるということを、この年になってようやく実感として理解したのである。知識として理解することと、身体に沁み込むように理解することとは違う。遅いといえば遅いが、それが分かっただけでもうけものだった。
期待するのを止める。そう聞くと、一見、期待値を予めコントロールして自衛するということだと思う人もいるだろう。もちろん、初めから望みを諦めておいた方が苦痛は少ない。ただ、望みを持たないで生きるつもりはないし、それとは異なることをここでは言おうとしている。それは、「己の基準によって生きる」ということである。
人の面倒を看る、思いやりを持つ。そうした姿勢を取るのが、人格者たる条件だと世の中では考えられている。人格者であるのは大層難しいことなので、多くの場合、人は思いやりを自己犠牲の精神として発揮しがちである。しかし、自己犠牲というのはどう見ても期待と背中合わせだ。無条件の愛(unconditional love)とは、本当は限られた条件の下でのみ成り立つものでしかないのだけれども(例:赤子が母親を愛する)、人はまるでそれが初めからそこに存在するかのように振舞ってしまい、心血や労力を注いでは密かに傷ついていく。公約通り振舞える人間などそうはいないだろう。
殊に女において、無条件の愛の幻想は顕著である。歴史上、多くの書き手が「母性」という概念に無条件の愛という衣を纏わせたため、人々が苦労しているのではないかとさえ思ってしまう。真実を述べると、母の愛が無条件であることは大変に難しい。逆に、自らが産んだ子どもから与えられる無条件の愛と信頼に身を投じ、その海に無心に耽溺し、自らの幼年時代を思い起こし、幸せというものの輪郭を掴むのは母の方である。理想的な母であろうとすれば、そのような素晴らしい幸福を味わったのちに、子どもが自我を芽生えさせ、巣立ってゆくのを見送り、その子の幸せだけを願わねばならない。だから、母として愛するというのは、とても幸せでかつ辛いことなのだ。
1980年、神奈川県茅ヶ崎生まれ。山猫総合研究所代表。東京大学農学部卒業後、同公共政策大学院及び同大学院法学政治学研究科修了。博士(法学)。東京大学政策ビジョン研究センター講師などを経て現職。主著に『シビリアンの戦争』『21世紀の戦争と平和』『孤独の意味も、女であることの味わいも』などがある。2017(平成29)年、正論新風賞受賞。
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