すれ違う男女の欲望
小松左京の小説に『機械の花嫁』がある。「女の役割」の集団放棄が、男の別の惑星移住と機械の花嫁=アンドロイドとの結婚に繋がっていくというSF作品だが、女は地球にとどまり、機械と男性の労働によって仕送りされる自ら生産しない存在として描かれている。今であればミソジニスト(女性に対して嫌悪や蔑視を抱く人)の誹(そし)りを免れないだろうが、1983年刊だから男女同権はその頃、お題目からようやく社会に実装される過程にある。
この小説は、一見して男性作家が自己主張し始めた女にうんざりし、子どもを産んで家事をする以外に価値のない怠惰な存在として見下しているように見える。しかし、もう一歩分け入ってみると、それほど単純な話ばかりではない。小松左京は、人の欲望を学習して奉仕する機械が存在する時代に女性は満足しないが、男性は簡単に満足し、むしろ生身の女性よりも女性を模して「母性」を提供する機械の方を選ぶのではないかという問題意識を持っているからだ。
出産や家事労働がテクノロジーによって代替されてしまえば「女の仕事」は必要なくなり、いずれ男女双方の利害が一致しなくなる未来が到来するのではないか。彼のこの予測は、一見外れているようにもみえる。現代では、「家事育児は女の仕事」という考え方が批判に晒され、労働参加率にも性差がほぼなくなっているからだ。正規社員比率の男女差も10年、20年後には世代交代によって大きく改善されるだろう。もし自分で出産せずともよく、家事育児負担がテクノロジーによって軽くなるのならば、働く女性の制約は解ける。未来社会において、男性のみがAIやロボットをコントロールすることにはおそらくならない。
だが、男性優位の前提さえ脇に置いて考えれば、小説の示唆するところは大きい。『機械の花嫁』は、ほんとうは男女の欲望の種類の違いについて語っている本だからである。
小説の中では、男性のファルス(シンボル)の誇示と支配の欲望は、優れた機械応答で十分に満たされることになっている。また、男たちは母性的な愛に潜む権力性や気まぐれ、不機嫌などを拒絶し、ロボットによる完全なる受容と奉仕だけを求める。
こうした男性理解は、ニコール・キッドマン主演の映画「ステップフォード・ワイフ」(2004年公開)においても繰り返されることになる。ただし、この映画で女性を遺伝子操作でロボット化する「男たちの陰謀」の隠された首謀者はむしろ女性であり、街の顔役の妻、クレアだ。
女の理想郷を作り上げるために変えなければならないのは女であり、男は遺伝子操作せずともロボットを与えておけば満足するだろう。少しドキッとするような仮説である。それでも、クレアの夫であるリーダー格の男性だけは例外であった。彼は実は生きた人間ではなく、ロボットであったことが判明する。生身の人間であったときに夫が犯した不義密通をクレアは許せず、その場の激情に駆られて思わず殺してしまう。そして、自身の遺伝子工学研究者としての英知を結集し、「完璧な夫」を作り上げたのだった。このストーリーは、自分が愛する男だけはそれにふさわしいものとして育て、制御したいという女の欲望を言い当てている。
ではなぜ、そのような才能を持ったクレアはステップフォードの妻たちと結託して男の方をロボットに作り替えなかったのだろうか。女がみんなでダイエットしたり髪をセットしたりするのを止め、研究や仕事に没入し、料理を作らず部屋を散らかしていても優しく献身してくれるロボットに。
それは潜在的な女の欲望が「こう見られたい」「こうでありたい」にあるからだ。相手のロボットが満足しているように見えても、自分は誤魔化せない。だから、多くの女性が時に苛々しながら手をかけた料理などを作る羽目になる。できないことに対して、無力感に襲われる。
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女性が自分自身だけでなく他の女に対しても厳しいのは、よく言われる嫉妬によるものだけではなくて、そうした理由にも基づいていると考えられる。女性は概して、同じ女性に対してはまるで自己の延長のように努力を求める。例えば、母親は息子には甘いが、娘には数々の美徳を求めがちだ。この対応の違いは、「自分はこういう存在として見られなければならない」という外部視点を規範として内面化していることと繋がっている。
クレアは、それを具現化することこそが最大多数の最大幸福であると思い、女性たちを作り替えたのである。
そう考えると、小松左京の男性観も、「ステップフォード・ワイフ」(原作はアイラ・レヴィン)の女性観も、なかなかに優れていることが分かる。もちろん、結婚相手がロボットで寂しくないのだろうかという疑問が生まれることも確かである。自分がリモコン操作でスイッチを切ることができる機械を相手に欲望を満たして、それで満たされるのだろうか。ステップフォードの場合、主人公のジョアンナはまさにそれを夫に問いかける。あなたがそのスイッチを押してしまったら、この私はいなくなるの、それであなたは本当にいいの?と。
現実の世界と判別がつかないほど仮想現実に埋没するための技術は日々進歩している。男性はそれで埋めきれない孤独を仲間内での連帯意識で埋め合わせることができるだろうし、女性にも仲間内の楽しみがあり、子どもを持てば少なくとも一時的にはパワーを持ち、愛に浸る実感を持つことができる。ただ、世の中にはそこに納まりきらないエネルギーが注がれる、数々の恋愛が存在する。それが結婚の形を取って持続可能なのかどうかは別として。
1980年、神奈川県茅ヶ崎生まれ。山猫総合研究所代表。東京大学農学部卒業後、同公共政策大学院及び同大学院法学政治学研究科修了。博士(法学)。東京大学政策ビジョン研究センター講師などを経て現職。主著に『シビリアンの戦争』『21世紀の戦争と平和』『孤独の意味も、女であることの味わいも』などがある。2017(平成29)年、正論新風賞受賞。
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三浦瑠麗エッセイ連載「男と女のあいだ」