アメリカ生活を彩った“勘のいい人”
到着した翌日、早速オリエンテーションが始まった。同じ早稲田大学から来ている学生が数十人程度いた(大人数だった!)。その中で、「昨日ずっと来なかった人?」とわたしが巻き込まれたトラブルを察した「勘のいい人」がいた。実は、一緒に来た早大生たちが合同で予約した送迎車に、わたしだけ乗れなかったのだ。入国審査に引っかかり、予定より遅れてしまったせいで、置いていかれることに。噂はすぐに広まり、「送迎車に乗り遅れた人」として周りに認知されてしまった。
そんなハプニングもありながら、ついにアメリカ生活がスタートした。初めてのアメリカ生活に「カルチャーショックは大丈夫だった?」とよく聞かれるが、この新しい環境もまるでワンダーランドのように楽しんでいた。多少変わったこともすんなりと受け入れていた。
人生初の寮生活が始まっても、一日二食は基本的にお米がメインの手作りごはんだった。どこにいても変わらない食生活を送るだろうと思っていたけど、大学のカフェテリアで出される生のマッシュルームでその考えが少し変わった。初めて食べた瞬間、雨が上がったばかりの森を裸足で歩くような、湿り気のある香りと独特の食感が口の中に広がった。多くの留学生たちはその独特な風味のせいで口にしないようだが、私は一気にこの奇妙な味の虜になってしまった。当時、異なる文化に触れるたびに、「生マッシュルーム」を口に入れたときのように、「とりあえず騙されたと思って何でも試してみよう」という気持ちで挑戦していた。最初は変だと感じた文化の一部にも、案外、気づけばすっかり魅了されてしまうことが多かった。
真新しい文化の数々にも、生マッシュルームをサクサクと頬張るように楽しんでいたら、あっという間に2ヶ月が過ぎ、初めてのアメリカでのホリデーシーズン、サンクスギビングが目前まで迫ってきた。
ホリデーをどうやって過ごそうかと頭の中で思い描いていたら、たまたま授業で隣の席に例の「勘のいい人」が座った。まだ一緒に遊んだこともない間柄だったが、2人1組のグループワークをさっさと終えた後、「もうすぐやってくるサンクスギビング、暇だよね」と何気ない雑談をした。そしたら、その場で「そうだ、サンフランシスコに行こう」とトントン拍子で話が進み、思いがけない旅が決まった。
実は、彼とは何となく同じ匂いを感じ取っていた。後にわかったけど、明確にやりたいことがわかっていなくて、日常的に「つまらない」と嘆く、いわゆる「自分探し」をしているタイプの人間だった。私と同じだ。だからこそ、旅の話もこんなに早くまとまったのだろう。
そして、サンフランシスコへ。初めて訪れたサンフランシスコは、街全体が黄色の光と曖昧な影に包まれており、その煌めきは目を奪うほど鮮やかだった。照明が織りなすユニオンスクエアの景色はまるで夢の中にいるかのようで、忙しなく行き交う人々や車の動きと相まって、活気に満ちた魅力的な雰囲気を醸し出していた。
愛と第二の反抗期と
この旅をきっかけに、「勘のいい人」とはすっかり気の合う友人となり、頻繁にシアトルの未知なる場所へ一緒に冒険するようになった。新しい場所に足を踏み入れるたびにワクワクし、ときめく高揚感を共有する中で、吊り橋効果も相まったのかもしれない。ある晩、深夜のPier 66(シアトルにあるターミナルクルーズ)を共に彷徨っていたら、不意に二人の関係性について意識がよぎり、心臓が一瞬止まりそうだった。
こんな出来事を恋人に報告すべきか、ギリギリのラインで心が揺れていた。しかし結局、勘のいい人とは友達から一線を超えることなく留まった。そして、当時の恋人とも、コロナ禍を経て帰国する直前に二度と会うことなく別れた。理由としては少し奇妙かもしれないが、当時の私は、そもそも「恋人が必要な人間ではなかった」んだと思う。
私はずっと自己中心的というか、ある意味で強い自己愛を抱いていた。今振り返ってみれば、当時は恋人への気持ちは真剣で純粋だったけれど、どこか冷めた気持ちでいた。なぜなら、その頃の私は孤独を感じていなかったし、何より自分自身を欠点も含めて受け入れ、愛していたからだ。1人でいても満たされていたから、誰かに癒してもらう必要もなく、「完全体の人間」だったのだ。
そのため、恋人への気持ちは、あくまで「日常の一部を切り取ってシェアしたい」といった軽い感覚で始まっていた。だから、シェアする相手がいなくなっても、自分の本質には何も変化がなかった。その後の人生に絶望し、自分のことをどうしようもなく憎み、他者の愛にすがらずには生きられないような孤独を味わうことで初めて生まれる盲目的な愛と全く別物だった。
時が経ち、コロナ禍で対面授業がなくなり、人々がお互いに会うことさえためらうような時期も、この街で過ごしていた。帰国前の夏、シアトルで「CHOP」と呼ばれる地域を訪れた。これはブラック・ライヴズ・マター(BLM)運動の一環として、シアトル警察署が一時的に撤退した後、市民たちが占拠して自治的な運営を試みた場所だった。抗議者たちは、警察の介入を受けずに自由で平和なコミュニティを築こうとしており、その場には彼らの理想が具現化されたような独特の空気が流れていた。
食べ物は無料で配給され、通りの壁には数多くのストリートアートが描かれ、燃えた草の匂いがあたりに漂っている。チルでファンキー、そしてヒッピーな雰囲気に包まれ、心の奥深くでそのリベラリズムに惹かれている自分を感じた。
自分にとって西海岸は、日常と非日常が交差する空間で、どこか幻想的でありながらも確かな温もりが漂い、胸が高鳴るものだ。今思えば、留学の醍醐味とは、まさにこうした非現実の楽園に解き放たれることなのかもしれない。日常から一気に遠ざかり、まるで違う世界に迷い込むような感覚。それは一種の「逃避」でありながらも、ただの逃避以上の何かがあった。
一つの価値観に縛られた環境で育っていると、無意識のうちに偏見が染み込んでしまうもの。しかし、異文化に飛び込むことで、自分を見つめ直し、客観視する力が養われると実感した。
シアトルのカルチャーは、常に自己批判を求められてきた私に初めて、「自分を許し、自由に表現する余地」を与えてくれたと思う。まるで第二の反抗期を迎えたかのように、抑え込んでいた思いを解放し、嫌がっていたものや、縛られていると感じていたものを手放す勇気を与えられた。同時に、自分の中に秘めていたものを見つける楽しさに夢中になっていった。
この一年で人間としてたくさん成長できたのは、この街にいたからなのか、あるいは単に年齢を重ねたからなのか。それとも、両方の相乗効果だろうか。いずれにしても、あの時シアトルにいなければ、いま大人になっても自由奔放で、自分の手に入れたいもののために全力投球する自分は存在しなかったかもしれない。
当時の日記には、こんなふうに綴られていた。
ーーシアトルの仲間とパーティーを楽しんでいると、ふわっとした目眩と心地よい浮遊感に包まれ、まるで幻の中にいるような感覚が広がる。まだ愛と希望を強く体験したことないけど、期待で胸がいっぱいになる。
シアトルで初めて免許を取り、広大な土地を自由に運転する感覚には、想像以上の解放感と安心感があった。風を切って走るとき、自分が広い世界に溶け込み、ひとつの広がりとなっているような気がする。
人間関係も少しずつ対処できるようになってきた。まだぎこちない部分もあるけれど、以前よりは少しは慣れてきたかな。異なる縁の形を模索し、欲望や苛立ちに向き合いながら、少しずつ成長している自分がいる。
オーガニック野菜を食べる、運動を欠かさずにする、自己管理に努める。大人になろうと必死に努力する日々だが、やはりティーンの幼かった時代が恋しい。複雑で重い感情かもしれないけど、こうした葛藤を抱えながら生きることこそが20歳なのかな。今ここにいる貴重な瞬間も含めて、人生の一コマ一コマに心から感謝したい。
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