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【連載】人を愛せたら立派なのか/三浦瑠麗氏連載「男と女のあいだ」#12 愛するということ

2025/01/01 18:00

三浦瑠麗さん近影
@Ari HATSUZAWA

国際政治学者やコメンテーター、そしてエッセイストとしても幅広く活躍する三浦瑠麗氏によるエッセイ「男と女のあいだ」。夫と友人に戻り、「夫婦」について改めて思いをめぐらせるようになったご自身のプライベートや仕事、過去を下敷きに「夫婦」を紐解いてゆきます。連載最終回である今回は、「人を愛すること」についてお届けします。

#12 愛するということ


むかし或る人に、自分のことをやはり愛していないのか、と聞かれて答えに詰まったことがあった。ごく正直に言えば、わたしはその場の刹那の衝動と慈しみを除けば、愛するということが何なのかしかとは分からないのである。愛する――きょうだいや子どもや親に対して覚える気持ちとは違う何かを、他人に持つということについて。
慈しみならば分かる。慈しみとは、他人の苦しみ悲しみを思いやり、それを和らげるとともに愉しい何かを与えることであり、仏教でいうところの「慈悲」の概念に近い。一般語で慈悲といえば、いかにも偉そうに聞こえるので用いるには注意が必要だが、本来の意味には上に立つ者から下へ恵むというような含意はないし、仏陀ではなく人間が実践する行いである以上、その本分は己自身が苦を捨て去り楽になることにある。
高校生のとき、京都旅行で蓮華王院三十三間堂の千躰の千手観音像を見にいった。ちいさかった時分にはお寺を訪ねるにもまるで散策か何かのような気分で、ろくすっぽ味わうこともなく仏像の前を通り過ぎていたのとは違って、随分時間をかけてひとつひとつの観音像を眺めたのを覚えている。南北約120メートルに及ぶ仄冥(ほのぐら)く細長いご本堂に、千躰の観音像がずらりと並んでいる。人が観音様に安らぎを求めるのは、それが御仏の働きのうち慈悲を表すものだから。このお寺ではいずれも少しずつ面立ちの異なる観音像があることから、訪れる人はみな、自分や家族に似た顔があるかと期待してのことだろう、あちこちお堂の通路を行き来しては探している。だが、わたしは眺めているうち、次第に無数にある観音像の顔をしげしげと見ることよりも、「見られている観音菩薩」という考えが頭から離れなくなった。
その思いは、他の寺を訪れ、博物館の所蔵品を見る中でもわたしに付き纏った。希代の彫師が魂を込めたであろう観音像の面立ちが、いかにはっとするほど美しくリアルなものであったとしても、彫り付けられた瞬間唇に止まったままの微笑は、寧ろそれに救いを求めてきた無数の人々から繰り出されてきた視線と願いの重みを感じさせる。したが、観音像の纏う天衣(てんえ)がひらりと緩やかな動きを描いて虚空を切っているのは、まるで、そこにあるのに目に見えぬ軽やかな風にたなびいているかのようでもある。拝む者たちそれぞれの現世(うつしよ)にとどまらぬその風は、時空を超えた万物の繋がりを示しているのでもあろうか。
この世の終わりまで、衆生(しゅじょう)に観られつづけたまま、ただ静止する受動性。そんな風に観音像を捉えるようになったある時、見ていて不思議な感覚に襲われた。相変わらず観音像は静止しているが、動いてもいるのである。その感覚は、観音像の内側へ向けて穿(うが)たれた穴から水が入ってさあさあと落ちてゆくのを見るような、そんな錯覚へとわたしを導いた。滝に落ちる水は常にとどまるところを知らないが、水は流転しても滝そのものは形を変えずそこにある。
その時は、ただそのような感覚や水が流れ落ちてゆくイメージをふと抱いただけであり、殊更人間の人生に事寄せて考えたというわけではない。だが、あとから思えばこの時、どのような外的存在が介在し通り過ぎようとも、己の中にすべての答えがあるということを理解したのではないか。独善を好むというのではない。寧ろ、裡(うち)に閉じ籠らず自らを外に開放しきったとしても、この感覚の延長線上を辿りさえすれば、きっと何事にもたじろぐ必要のない構えを見出すだろうという予感のようなものだった。
ひとりの人間が真にたじろがない心境に近づくとき、それはもう構えですらなくなるのかもしれない。それこそが寂滅(じゃくめつ)ということなのだろうから。

下に続きます
三浦瑠麗
1980年、神奈川県茅ヶ崎生まれ。山猫総合研究所代表。東京大学農学部卒業後、同公共政策大学院及び同大学院法学政治学研究科修了。博士(法学)。東京大学政策ビジョン研究センター講師などを経て現職。主著に『シビリアンの戦争』『21世紀の戦争と平和』『孤独の意味も、女であることの味わいも』などがある。2017(平成29)年、正論新風賞受賞。

X(旧Twitter):https://x.com/lullymiura
Instagram:https://www.instagram.com/lullymiura

三浦瑠麗エッセイ連載「男と女のあいだ」

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