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【連載】人を愛せたら立派なのか/三浦瑠麗氏連載「男と女のあいだ」#12 愛するということ

2025/01/01 18:00

愛することへの覚悟

ちいさい頃のわたしは神経が過敏で、弱虫だった。登下校路にお化けが出ないか恐ろしくて恐ろしくて、よく後ろをぱっと振り返ったりしたものだ。古い日本家屋でお手洗いに行くときなどは昼間であっても恐怖でしかなく、裸電球の下、黒ずんだ板張りの床のきしむ音に怯えた。廊下の先にはきっと幽霊が出ると思っていたからである。
そんな子どもであったわたしが、きっと強い人間に違いないと多くの人に思われる日が来るだろうとは思わなかった。けれども、考えてみればそれは強いというイメージの方が誤っているのかもしれない。一見、強いと見えることは、鋼のように分かりやすい強靭さではなく、通り過ぎていく物事を受け入れる能力でしかないのかもしれないのだから。

娘曰く、母であるわたしは複雑な矛盾する要素がそれぞれ別個に存在するのではなく溶け合って存在しているのだそうだ。臆病さも勇敢さも、無邪気さも諦めも、獰猛さもいたいけなところも。面白い表現だと思った。
所謂鋼のように強い信念の人。自分は常に戦っていると思う人間は、途中で自らを疑ったりしないのだろう。傍から見ると、若し間違っていた場合のシナリオは検討せず、自らの正義のためには付随的被害を厭わないようにもみえる。戦いが全てだからである。
反対に、自らを疑うという姿勢は、向き合う相手や世間というものに対しても「合理的な疑いの余地」を常に残すことに繋がる。これは日常語でいうとネガティブな意味にしか取れないが、法的な専門用語から派生して、相手に不利なことだけで判断せず、他の可能性を常に探るという意味合いになる。要は、限られた知識や仮説だけで決めつけないということ。
フェアな人間であるというのは、一貫性の原則と心中するためにどんなことでもするというのではなくて、どんな相手にも合理的な疑いの余地を残しておいてあげるということなのである。それは、他人は裏切るものだし、人間は己の損得や痛みばかりを考えているものだ。だからどうということはない。そこからが人間付き合いのスタートである。

もちろん、わたしにだって人の好き嫌いはあるし、愛される上では多くのことを期待してしまうのもまた事実である。しかし、愛してくれる人の「狡さ(ずるさ)」や欠点ばかり見抜いて何になろう。一度愛すると決めたならば、その人と別れたとしても、いつまでも思い遣りつづけるというのがわたしの習い性であって、またおそらくそれゆえなのだろう、多くの人に大切にしてもらってきた軌跡の積み重ねが、その娘のいう無邪気さと諦めの奇妙な同居となって人格に跡をとどめている。
己が生きる構えはこうなるだろう、という若かりし日のぼんやりとした予感は、時を刻んで自己成就していった。客観性と主体性の同居といったらよいのだろうか。世に生きていれば、儘ならぬことばかり多い。それをそれとして客観的に受け止めつつ、主体的であろうとするという生き方である。主体的に生きようとするたび己自身の限界を悟り、それでもなおかつ一個の人間として、生きていることの神秘に驚かされる。われわれがみな、偏(ひとえ)に風の前の塵に同じであるという言葉が、教訓ではなく段々と安らぎのようなものとして捉えられるようになっていく。それが歳を取るということなのかもしれない。
人は生の苦しみの中で自我を彫り出し、人格を陶冶(とうや)する。望み、執着し、別れ、憎み、恨み、許し、その苦しみが最終的に己を離れた自然の中に安らぐまで。己を持ち、なおかつ己を捨てて無になることの矛盾の中にしか存在しない安らぎは、神なき民である日本のわたしにとっての救いであり、そこにしか苦しみからの離脱の方法を求めたいとは思わない。
慈しみとは、わたしにとってそのような己の存在と同様に、苦を持つ他者を意識することにより生じる心であって、苦しみを受容し和らげ、楽を共にするためのものなのである。それは単にやさしさと理解であって愛ではないというのであれば、そうなのかもしれない。

晴れた日の仁和寺の庭での一枚
晴れた日の仁和寺の庭での一枚本人提供写真


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三浦瑠麗
1980年、神奈川県茅ヶ崎生まれ。山猫総合研究所代表。東京大学農学部卒業後、同公共政策大学院及び同大学院法学政治学研究科修了。博士(法学)。東京大学政策ビジョン研究センター講師などを経て現職。主著に『シビリアンの戦争』『21世紀の戦争と平和』『孤独の意味も、女であることの味わいも』などがある。2017(平成29)年、正論新風賞受賞。

X(旧Twitter):https://x.com/lullymiura
Instagram:https://www.instagram.com/lullymiura

三浦瑠麗エッセイ連載「男と女のあいだ」

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