【テレビの開拓者たち / 鮫肌文殊】「放送作家はみんなドM(笑)。禁止事項が多いほど逆に燃えるんです」
「進め!電波少年」から始まった「電波少年」シリーズ(1992~2003年日本テレビ系)をはじめ、「ASAYAN」(1995~2002年テレビ東京系)、「ガチンコ!」(1999~2003年TBS系)など、数々の爆笑バラエティーに、そのインパクト大なペンネームを刻んできた放送作家・鮫肌文殊。絶好調の日本テレビの象徴ともいうべき高視聴率番組「世界の果てまでイッテQ!」(日本テレビ系)、過酷すぎる“無情のアイドルオーディション番組”「ラストアイドル」(テレビ朝日系)という、現在構成を務めている人気バラエティー2本を軸に、テレビバラエティーの“来し方行く末”を語ってもらった。
放送作家という職業があること自体、知らなかったんです(笑)
――まず、鮫肌さんが放送作家の道を歩むことになったきっかけからお聞かせください。
「元々は漫画家になりたくて、『少年チャンピオン』なんかに投稿していたんですけど、本名の井上だと平凡すぎて編集者に覚えてもらえないから、一度聞いたら忘れられないインパクトのある名前にしようと思ってつけたペンネームが、『鮫肌文殊』だったんです。そんな中で、『ビックリハウス』(※70~80年代にコアな人気を博したサブカル系投稿雑誌)にも投稿し始めたら、いくつか賞をもらうようになって。その投稿を読んで面白がってくれた中島らもさんから、『なげやり倶楽部』(1985~1986年読売テレビ)という、らもさんが司会の深夜番組のブレーンとして誘ってもらったのが、そもそものきっかけです」
――「なげやり倶楽部」では、具体的にどんなお仕事を?
「企画案を出したり、コントを書いたり。でも、最初はあんまり仕事という意識はなくて。というか、僕はそれまで放送作家という職業があること自体、知らなかったんですよね(笑)。初めてギャラをもらったときに、『こんなことでお金もらえるんだ』と、びっくりしたのを覚えてます。
その『なげやり倶楽部』は、過激すぎてすぐに打ち切りになるんですが(笑)、番組に出演していたキッチュさん、今の松尾貴史さんとは、番組が終わった後も仲良くしてもらってたんですね。で、それからしばらくして、松尾さんが古舘プロジェクトに所属することになったときに、松尾さんから『手伝ってくれない?』と連絡をもらって。それを機に上京して、古舘プロジェクトの放送作家陣の末席を汚すことになったわけです」
――では、放送作家としての本格的なデビューは?
「『構成・鮫肌文殊』というふうに、エンドロールにちゃんと名前が載ったのは、『進め!電波少年』からです。番組の生みの親である“T部長”こと土屋敏男さんが、『電波少年』を始めるときに、ブレーンとして“とにかく面白いこと考える人”を探していたらしくて。そんな中で、『ビックリハウス』でアホなことを書いてた鮫肌文殊が今、放送作家をやってるっていうことをたまたま知って、僕を呼んでくれたんですよ。番組が始まったころは、ネタ出し要員の一人だったんですけど、その後、台本も任されるようになりました」