『胸がちくちくとした』…“欲望を持たない”無垢な青年の姿を描く感動作「幸福なラザロ」<山崎ナオコーラ映画連載>
「この作品で大きな役割を果たしているのは金だろう」
この作品で大きな役割を果たしているのは金だろう。人間は金によって、共同体も兄弟も友情も築いている。
映画や小説といったフィクションの世界では、金というと欲望と共に描かれがちで、欲望を捨てて純粋に生きさえすれば、社会に馴染めて、家族や友人ともうまくいく、といった形の結末に向かうことが多いように思う。金を意識せずに人間関係を築こう、というスローガンが見え隠れすることが多い。
でも、『幸福なラザロ』を観ると、そうではないのだ、と気づかされる。タンクレディやアントニアなどを見ていると、人間が欲望を持つのは自然なことだと思える。欲望を持つことは罪ではあるが、悪人だけが持つものではなく、ラザロ以外のすべての人間が持つ普通のことなのだ。そして、欲望を捨てたところで人間関係は築けない。そもそも、金のおかげで人間はつながることができているのだ。
人間は、社会的な生き物だ。生きていられるのは社会を形成しているからだ。社会は言葉と金によって作られている。人間は動物と違って、言葉と金によって他者とコミュニケーションを取れる。そのおかげで、地球上でこんなに繁栄した。
言葉はきれいなものとして扱われがちだ。人と人とをつなぐ宝石のようなものとしてフィクションで描かれる。
金も、言葉と同じようなコミュニケーションツールなのに、なぜか悪く描かれる。金がなくても人とつながれるはずだ、ということが盛んに言われる。金は汚いものだ、金を意識するな、と。
『幸福なラザロ』でも、ラザロは金を意識しない聖人として描かれるし、銀行で迎えるラストは衝撃的だ。
でも、観終わったあとに、「やっぱり、金から完全に離れないといけない」と思うかというと、そんなことはない。むしろ、「金についてきちんと考えないといけない」「私たちは、金と適度な距離を保ち、適度な金で人とつながらないといけない」という思いが湧く。人間は、神とは違う道を進まなくてはいけない。罪を抱えたまま、連帯しなければならない。
私はラザロにはなれない。人間としてきちんと生きなくてはならない。社会を構成しなければならない。
ただ、ラザロが聴いていた教会の音楽が胸にちくちくと刺さる。抜けない刺のように、これと共に生きなければならないのだろう。
山崎ナオコーラ
作家。1978年生まれ。『趣味で腹いっぱい』『リボンの男』、エッセイ『文豪お墓まいり記』『ブスの自信の持ち方』など。目標は「誰にでもわかる言葉で、誰にも書けない文章を書きたい」。