「新解釈・三國志」で描かれる“赤壁の戦い”とは? 公開前に“従来の解釈”をおさらいしてみた
周瑜の火計が曹操を襲う
そして、いよいよ80万の曹操軍と3万の劉備・孫権連合軍の戦いが開戦。周瑜は黄蓋に偽りの投降をさせて曹操軍を火攻めしようとするが、北西の風が吹いており、この風向きだと自らの軍にも火が回ってしまうため、実行に移せずにいた。
周瑜の悩みを見抜いた孔明は周瑜に祭壇を築かせ、そこで祈祷を実施。すると、東南の風が吹き始め、周瑜は黄蓋による火計を実行。黄蓋は投降するふりをして船で曹操軍に近づいていき、そのまま船で敵船に体当たり。自軍の船に火をつけ、曹操軍を火攻めした。
被害を最小限に食い止めたかった曹操だったが、船同士が鎖でつながっているため延焼を止められない。実は、ホウ統は劉備・孫権連合軍とつながっていて、連環計も劉備・孫権連合軍の計略の一部であった。
周瑜の火計は成功し、大損害を受けた曹操は陸に上がって敗走。北へ逃げる曹操を、孔明の命で待ち伏せしていた趙雲、張飛が次々と襲撃する。
趙雲、張飛から何とか逃げ延びた曹操だったが、最後に関羽が立ちはだかり絶体絶命。だが、関羽は「赤壁の戦い」以前、劉備軍が曹操軍に敗北した際に投降し、曹操軍に身を置いていたことがあり、曹操はこの時関羽にかけた恩を持ち出して見逃してもらうよう懇願する。
義理堅い関羽は曹操を逃がしてしまうが、この戦いにより孔明が描いていた「天下三分の計」が実現し、中国史は魏、呉、蜀の“三国時代”を迎えることになる。
以上が「赤壁の戦い」の“従来の解釈”になるが、「新解釈・三國志」公式サイトには、曹操、劉備ら英傑たちが台頭するきっかけとなった「黄巾の乱」(184年)の黄巾(山田孝之)や、暴君として知られる董卓(佐藤二朗)らの姿も。劉備が孔明を迎え入れるため、孔明の元を三度訪れたという「三顧の礼」など、「赤壁の戦い」以前の“新解釈”にも期待したい。