コンサートの最後に歌った平和への願い。皆で手を繋いで歩こうよ
――11月22日には50周年コンサートを収録したDVDがリリースされます。覚えていらっしゃらないということですが、何か記憶を探って出てくることはありませんか?
「酒よ」を台湾語で歌ったのは覚えていますね。きっかけは江蕙(ジャン・フェー)さんという、台湾の有名な女性歌手が歌ってくれていたことです。台湾では何度か公演をさせていただいていて、その縁もあって江蕙さんが僕の歌を歌ってくれているんですよね。それで僕も台湾語で歌ってみようと思い、ジュディ・オングさんにお願いして台湾語での発音を書いてもらったんですよ。
でもね、それを台湾で披露したとき、イントロが流れだしたらみんなが台湾語で歌い始めて。4000人くらいの声に僕の声は掻き消えてしまった。なんだよ、俺が歌ってんだから、せっかく覚えてきたんだから聴いてくれよって。最初はムッときたんだけど、最後には感動して歌えなくなってしまいましたね。
50周年コンサートDVDは、そんな縁のある台湾語の「酒よ」を聴いていただけます。50周年はもう1つ、大事なことを思い出しました。ウクライナとロシアの件があって、最後に「天空へ届け」という歌を歌ったんですよね。戦争なんかなくなってほしいと、平和を願った歌です。僕の中にそういう歌はたくさんあるんですよ。
拉致被害者のために作った「羽を下さい」という曲もあります。本来なら最後は明るい曲で楽しく終わるのがいいのかもしれないけど、どうしても平和への願いを最後に歌いたかった。こういう曲は僕だけでなく、歌手の方々は皆さん持っています。「We Are The World」のように、みんなで歌う歌もたくさんあります。
それを権利関係、プロダクションの関係とかで歌えないというのは残念じゃないですか。そこはおおらかに考えて、日本の歌手の皆さんが、ジャンルを超えて良い形で歌えるようになってほしい。手を繋いで歩こうよ、と。そんな時代になってもらいたいというのが日本の歌謡界への夢、僕の願いです。
転機は千昌夫との出会い。人に恵まれた50年
――歌い続けて50年は偉業です。歌い続ける気持ちを持ち続けてこられたモチベーションはどういうところにあるのでしょうか?
やっぱり天職だと思ったからでしょうね。やろうと思えば他のことだってできたと思うけど、歌を歌うことが僕に課せられた生涯の仕事なのだと思って続けていますから。
――転機になった出来事というのはありますか?
最初は自分ながらに一生懸命で、「俺はぜったい!プレスリー」や「俺ら東京さ行ぐだ」は八方破りですよ。駆け出しの頃はまともに歌謡曲を歌っても売れねえんだって。その後は千昌夫さん(1984年「津軽平野」を提供)と出会えたのが1つの転機かな。色々とアドバイスをしてくれて。
千さんも含めて、家族も含めて、人に恵まれたということですよ。それしか思い当たる節は見当たらなくて、いい人ばかりとの出会いでした。僕は僕で一生懸命やってきたけど、周りはそれ以上に一生懸命に盛り上げてくれました。ですからファンの方々だけでなく、グッズを作ってくれる方もそうだし、全ての皆さんに感謝しています。
良き仲間では、山本譲二、細川たかしとは三人兄弟みたいなものだし、来年は山本が50周年、再来年は細川が50 周年。山本のコンサートには「細川、お前も出てやれよ、俺も出るから」って、そんな話をしています。ただ、これまではずっと忙しかった。暇な瞬間なんてなかったですよ。暇があっても結局ピアノかギターを弾いていますから。
――2017年から2018年の休業期間。活動休止という言葉が独り歩きをして誤解を生みましたが、実際は世界を旅する学びの期間だったわけです。どのような体験がありましたか?
イタリア、スイス、フランス、アメリカとか、色々な国の色々な土地に行って、本物に触れたことは大きいです。今まで日本で見聞きしてきたものと実際の光景、空気っていうのはやっぱり違う。最初の頃にパリっぽい歌を作ったこともあるけど、行ってみて、街でアコーディオンを弾いている人、歌っている人を見ると、やっぱり違うんだなと。音楽には本場で聴かなきゃ分からないことがたくさんあるんですよ。
――その中で、特に印象に残っている出来事は?
一番嬉しかったのは、ジャズ発祥の地、ニューオーリンズに行けたこと。僕は昔からジャズが好きだったからね。そこでは子どももドラムを叩いているんですよ。バーボン・ストリートの真ん中にあるホテルに泊まったんだけど、うるさくて30分も寝られなくて。で、枕元を見たら耳栓が置いてある。ホテルも分かっているんですよ。何十軒も店が連なっていて、夜も店々で生演奏をやっているんです。郊外やちょっとした公園でもやっていて、「ここがニューオーリンズか 」と感動したものです。