美談のままには語りたくない、母の最期の言葉。そして、吉がマイクを置くときは…
――吉さんのお話、体験はユーモアに溢れていてとても楽しく、魅力的です。吉幾三流の楽しく生きる、元気に生きるコツがあれば教えてください。
僕の周りにはどうにも必ずおかしな話があるんですよ。飲み話だけでも楽しい話はあるし、最近ハマっているメルカリでも面白い出来事があったし。人によってはとんでもないことでも、僕はそれを楽しく受け止めるんだよね。要は、周りにある面白いことに気付くのが大事なんです。
それに気付かないと、やっぱりつまらない毎日になってしまうんじゃないですか。僕自身が楽しくないと、お客さんも楽しくないだろうしね。お袋が死ぬ間際に残した言葉とか笑い話にして話しているけど、本当は、「村一番の…村一番の貧乏だったうちが、日本一幸せな私になった」って。これがお袋の最期の言葉で、だけどこんな風に言葉に詰まってまで話したくないから。
僕の上には兄姉が8人いて (吉は末っ子) 子沢山な家庭だったんで、だったら「私、パンツ履く暇がなかった」と、そんな言葉にするしかないでしょう。こう、ひっくり返してね。皆さんがくすくす笑って帰ってくれる方がいい。良い言葉なんだけど、僕はそれを逆にやる。親父は「あのよ(世)~」って言ってパッタリ逝っちゃったってね。
――吉さんの人柄が伝わってきます。最後に、芸能生活50周年、今後の活動へのお気持ちをお聞かせください。
これは常々言ってきていることだけど、声が出なくなって、自分の歌を半音下げて歌わなければいけなくなったときは、それをはっきり申し上げて引退させていただきます。
――吉さんがマイクを置くときということですか?
歌手としてね。そうならないように努力して、常日頃から弟子のレッスン、スタジオにも入って歌うようにしているけど、やっぱりロングラン公演はきつくなってきているんです。「雪國」なんかは絶対原音でなきゃいけないから、それが歌えなくなったときが、マイクを置くときですね。50年は途中じゃない。もう歌の終活をやらないとね(笑)。
PROFILE 吉幾三
1952年生まれ、青森県出身。1973年、「恋人は君ひとり」(芸名:山岡英二)でデビュー。1977年、吉幾三に改名し、「俺はぜったい!プレスリー/青春荘」をリリース。以後、シンガーソングライターとして活躍し、CM ソング、TV ドラマのテーマソングも多く手掛ける。
取材・文/鈴木康道