女優になるつもりがなかった…
岩下の芸能界入りの出発点となった作品は、NHKテレビ初の帯ドラマとして放送された「バス通り裏」(1958-1963)。十朱幸代、田中邦衛らを輩出した同作は、現代ではなかなかない生放送ドラマだ。
当時、高校生だった岩下は精神科医を目指していたとのことで、女優になるつもりはなかったという。しかし、お金に釣られてドラマに出ることを決めたと明かし、スタジオの鶴瓶、阿川と同様に女優を目指していなかったことに驚きつつも、その理由に笑ってしまった。
そんな岩下が女優の原点だと語るのが、映画監督、脚本家の小津安二郎さんからの大切な教え。小津監督といえば映画「晩春」(1949年)、「東京物語」(1953年)、「浮草」(1959年)など数々の作品を手掛けた日本映画を代表する監督のひとり。
その小津監督の遺作となった「秋刀魚の味」(1962年)に出演する岩下は、当時の撮影現場での様子や小津監督に掛けられた言葉、当時の思いを丁寧に、静かに振り返っていく。ここで驚かされたのは、大女優の岩下が、同作の撮影時にテスト(リハーサル)を50~100回行っていたというエピソードだ。岩下曰く、“自然体”な演技を引き出すためだったのだろうとのことだが、小津監督のこだわりにも、それに応えようとする岩下も「凄い…」。
ここでは、岩下が当時闘病中だった監督の病室を訪れた際に、小津監督と交わしたという貴重な会話を明かす場面も。小津監督が岩下に告げた言葉はとても印象的で、胸がギュッと締め付けられるものだったが、それに対し「今の私だったらいろんなことを言って、慰めて差し上げられたんだけど、当時は何も言えなくて」と打ち明ける岩下の思いもまた心に響いた。
生活感を感じさせない岩下志麻のプライベート
鶴瓶と阿川が共に声をそろえて「生活感が見えない」と言う、岩下のプライベート。クールに見られがちだが、実はのんびり屋さんで、撮影現場などでは“駆けずのお志麻”と呼ばれていたほどだという。
岩下は、1967年に篠田正浩監督と結婚。数々の作品で共にしてきた2人だが、結婚に至るまでの思い出がなかなかのインパクトを感じさせるものだった。先に挙げたように、自身のことを“のんびり屋”だと語る岩下だが、篠田監督との結婚は岩下の直感によるもの。そのエピソードに、鶴瓶も夢中だ。
そして、出産を経て、仕事と子育ての間で揺れたという岩下は、女優を辞めることを考えた時期もあったという。しかし、その後に出演した映画「はなれ瞽女(ごぜ)おりん」(1977年)で、岩下は「『第1回日本アカデミー賞』主演女優賞」を受賞する。
番組では、もちろん岩下の代表作「極道の妻たち」シリーズにまつわるエピソードも。岩下がこれまでの作品で演じてきた役柄と異なることもあり、鶴瓶、阿川も当時は驚いたと明かしながらもグイグイと岩下の思い出に迫っていく。
その他にも、若かりし頃の岩下の家族写真や、おっちょこちょいエピソード、知られざる“阪神タイガース愛”、「これから」について語る姿など、岩下の魅力が存分に伝わる内容となっている。