1983年5月4日、47歳の若さでこの世を去った寺山修司さん。詩人であり歌人、小説家、エッセイスト、作詞家、映画監督、写真家…とさまざまな顔を持ち「職業は寺山修司」と名乗るほど多才で、劇作家としては「演劇実験室◎天井棧敷」を率い、“アングラ演劇の旗手”と称された。そんな寺山さんの没後40年記念事業の締めくくりとして、CS衛星劇場ではこの6月、ゆかりの舞台2作品と手掛けた映画3作品を放送する。没後40年を経ても、これほどまでに人々の心を動かし続ける寺山さん。この機会に、その軌跡を振り返る。
18歳で歌壇デビュー 早くに芽吹いた非凡の才
寺山さんの軌跡を振り返ると、“ことば”にまつわる才能のゆたかさを改めて思い知らされる。
1935年12月10日、青森県に生まれた寺山さん(戸籍上は1936年1月10日生)。9歳の時に青森市大空襲で被災して以降、親戚の家に預けられて少年期を過ごした。中学生の頃から俳句や短歌、詩に打ち込み、念願だった早稲田大学に進学後、すぐに第二回「短歌研究」新人賞を受賞。鮮烈に歌壇デビューした時はまだ18歳だった。
だが、一躍注目の的となった翌年にネフローゼ症候群を患い、22歳の歳まで入退院を繰り返した。その後、彼の才能の良き理解者であった詩人・谷川俊太郎氏のすすめでラジオドラマのシナリオを書き始め、最初に採用された作品が民放祭入賞、二作目で民放祭大賞と、早くからその非凡ぶりを遺憾なく発揮した。
時代の寵児となった“アングラ演劇”全盛期
すぐにラジオ・テレビの売れっ子作家になった寺山さん。1967年、アーティスト・横尾忠則らと「演劇実験室◎天井棧敷」を設立した。
“アングラ演劇”と呼ばれる小劇場演劇運動の広がりとともに、劇団は瞬く間に人気を獲得した。当時の劇団の、色使いやデザインが目を引くポスターの数々や、ニッと笑った顔がデザインされた当時の専用劇場「天井桟敷館」の外観からも、アヴァンギャルドな劇団の雰囲気が感じられる。
寺山さん自身も、“アングラ演劇”の旗手として「状況劇場(紅テント)」の唐十郎さんらとともに“アングラ演劇四天王”の一人に数えられ、国内のみならず世界的に注目を集める存在になった。中でも寺山さんと唐さんの2人は当時、若い世代のオピニオンリーダーとして注目され、マスコミの寵児(ちょうじ)に。2人は寺山さんの晩年まで親しく交流を続け、互いを認め合うライバルともいえる間柄だったという。
18歳での歌壇デビュー以降、脚本執筆と劇団活動、エッセイや小説の執筆、ヒット曲の作詞とジャンルを問わず多彩な活躍を見せ、魔術師のように“ことば”を操った寺山さん。絶筆となった「墓場まで何マイル?」には、「私は肝硬変で死ぬだろう。そのことだけは、はっきりしている。だが、だからと言って墓は建てて欲しくない。私の墓は、私のことばであれば、充分。」という文章が遺されている。