長らくテレビを見ていなかったライター・城戸さんが、TVerで見た番組を独特な視点で語る連載です。今回は『ナゼそこ?』(テレ東)をチョイス。
100年という時間について『ナゼそこ?』
「ナゼそこに?」と思うような場所にいる人に密着する番組『ナゼそこ?』。今回は、山奥で驚きの生活を送る人々に密着する。紹介されるのは、愛知の山奥に住む100歳同士の夫婦、名古屋に住みながら週末には長野の山奥に通う国際夫婦、そして雲の上にぽつりと存在する3世帯5人だけの集落。どれも非常に興味深い生活が映し出されるのだが、私が特に興味を引かれたのは、100歳同士の松井さん夫婦である。なぜならば、私も100年は生きようと考えているからだ。
週に一日しかバスの出ていない山奥で暮らす松井さん夫婦は、幼馴染同士のふたりだ。長い年月を共に過ごしてきたことが伝わってくるような、独特の呼吸がある。スタッフがコミュニケーションに難儀する場面が多々見受けられるのだが、それは単に高齢者と若年者という年齢の違いだけではなく、長い年月をかけて築き上げられた、1分が60秒とは限らないような特殊な時間の支配する空間に外部から侵入してしまったことに拠るものとも思える。このように感じるのは、やはり100年という時間の重さだろう。
しかし、私はここで自分のことを考える。自分のことを考えるのは得意だ。そもそも、100年というのは、長いのか、短いのか?こうしてテレビで特集が組まれるほど、100歳という年齢は珍しいのだ。ということは、おおよその人間は、100歳までは生きられない、ということなのか……?
100年というのは1年を100回だ。私は人生は永遠に続くべきだと思っている(永遠に続けばいい、なんてぬるいことは言わない。永遠を求める以上は、それがまず道理であると主張しよう)。そんな私からすれば、100年というのは、そう長い時間とは思えない。いや、途方もなく長い時間ではあるのだろうが、100年より200年のほうが長く、200年より1000年のほうが長い。それなら1000年を選びたい、というのが私の考え方だ。1000年の先には永遠があって、永遠の先には……。
奥の奥まで思考を巡らせていると、だんだんと他者というものの存在について考え始める。そして、コミュニケーションの重要さを思い出すというのが私のいつもの流れ。100年共に過ごすというのは前代未聞のコミュニケーションであろうし、もはや偉業であるといっても決して過言ではないだろう。ぜひ番組本編を鑑賞いただき、100年という時間について考えていただきたいと思う。
■文/城戸