シャツの襟についた口紅は誰のもの?
交際して2ヶ月が過ぎた頃、彼と初めて旅行に出かけた。目的地は、彼が提案してくれた南国の小さな島。青い海がどこまでも広がるその島は、静かで洗練された空気をまとっていた。彼は鮮やかな黄色いポルシェにわたしを乗せて、滑るように車を走らせた。風が髪を揺らし、心地よい潮の香りが漂ってくる。
その夜、絶景を望めるガラス張りのホテルに泊まった。広い窓からは波音が聞こえ、月明かりが海面を優しく照らしていた。部屋に入った瞬間、わたしはその光景に息を呑む。彼もまた、その反応を満足そうに眺めていた。
翌朝、彼はわたしを人気のないプライベートビーチに連れて行った。砂浜には誰の足跡もなく、ただ波が静かに寄せては返す。わたしたちは裸足で歩き、何気ない会話を交わしながら波打ち際を楽しんだ。そのとき彼が見せた柔らかな笑顔を、わたしは今でも鮮明に覚えている。
彼の目には、わたしがどのように映っていたのだろうか。その視線は常に温かく、時には誇らしげに見えることもあった。彼は「きみの頑張りにはいつも感心する」と何気なく口にし、その一言がわたしの心に染み入る。彼の期待に応えたい、彼が誇れる存在でありたい。その思いが、いつの間にかわたしの中に芽生えていた。あるとき、彼が仕事の報告書でわたしをアナリストとして名指しで褒めてくれたことがあった。わたしは気づかないふりをしたが、内心では嬉しさが込み上げてきた。彼の言葉には厳しさが多い中、その一瞬の評価は、わたしにとって格別なものに変わっていった。
わたしが彼に気持ちを寄せることと比例するように、だんだんと彼の要求はエスカレートした。彼が選んだ服を私に着せようとしたり、彼好みのライフスタイルに合わせるよう求めるようにまでだ。わたしは違和感を覚えながらも、無理やり自分を納得させた。「愛されているんだ」と。わたしの目には、彼が完璧な男性に映った。彼にとって「完璧な存在」「彼が求める理想」になるため、わたしは少しずつ自分自身を変えていった。
しかし、彼のシャツの襟に口紅の跡を見つけた夜、わたしはその関係に小さな亀裂を感じた。漂っていた香水の匂いは、わたしにはない何かを物語っている。派手なメイクをし、ボディタッチをすることに慣れた女性が触れたのかな。もしかすると、これは彼が意図的に与えた「試練」だったのかもしれない。
考えていても埒があかないので「キャバクラかな、接待なら行ってもいいかな」と、わたしは何も知らないふりをし、彼に対してますます従順に振る舞った。彼が求めていたのは、そうした女性の服従によって満たされる「愛されたい」という欲求や、欠けた自己肯定感を埋めることだったのだろうと思ったから。
そんな日々の果てに、彼の思う最高の褒美をわたしにくれた。その日は、いつものように彼のベントレーの助手席に座り、千葉の人里離れた海辺に連れて行かれた。果てしなく広がる海には一隻の舟も見当たらず、空には星もなく、大きな雲が漂うだけ。肩に覆うもののないわたしの肌に、心が締めつけられるような冷たい風が吹き抜けた。まるで、わたしたちは世界の片隅に二人だけ取り残されたかのようだ。薄暗く、夕陽とも呼べない曖昧な空の下、彼はポケットからハリー・ウィンストンの青い箱を取り出した。
彼はわたしの名前を小声で呼びながら、プロポーズの言葉を紡いだ。一瞬びっくりしたが、返答より、「初めて一緒に砂浜で遊んだあの日に戻りたくない?」と尋ねたかった。あの頃が一番幸せだったから。けど、何も言わず飲み込み、彼に小さく頷いた。
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