<山崎ナオコーラ映画連載>第1回『勝手にふるえてろ』
第1回は、『勝手にふるえてろ』を観る。
絶滅した動物についてネットで調べるのが趣味の会社員、24歳のヨシカが主人公だ。ヨシカには、生まれてこの方、彼氏がいたことがない。周囲の人たちと、深く関わることもしてきていない。でも、淡い人間関係や、淡い恋心があり、頭の中ではたくさんのことが起こっている。部屋にひとりでいても楽しいし、会社の掃除のおばさんやコンビニ店員や駅員やよく見かける釣り人やアパートのお隣りさんやカフェ店員とのほんの少しの接触もあるし、ヨシカの暮らしは豊かだ。脳内では、イチとニという2人の男性が常に動いていて、ヨシカとの関係が紡がれる。中学生の頃からの片思いの相手のイチと、面倒くさい感じで好意を寄せてくる会社の同期のニ。
小さな世界における淡い人間関係の緩やかな動きしかないのに、個人の頭の中の大きな妄想をしっかりと映し出しているため、ものすごく大きな爆発が起こったかのように錯覚させる映画だ。
原作は綿矢りささんの小説だ。地の文でつづられるヨシカの思考が、危うくて、それでいてユーモアいっぱいで、リズミカルにどんどん読める傑作だ。
でも、映画と小説では、できることが違う。小説や漫画といった原作を軸にして映画が製作されることが最近はよくあるが、たぶん、「小説を忠実に再現しよう」というときより、「映画という形が大好き!」という監督やスタッフの方々の力が集まったときに、素晴らしい映画化が起こる。
(余談だが、私自身が小説家なので、「忠実」とか「再現」とかという捉え方をしているのを見かけたとき、「小説という媒体を甘く見られているなあ」と、ちょっとしょげてしまう。小説家は、ヴィジュアルや音楽ができないから仕方なく言葉だけで作っているわけではなく、言葉だけでできあがる世界がすごく面白いと思っていて、小説という形が大好きだから、小説を書いている。小説の世界は完結している。そのため、「忠実に再現」ではなく、「映画としての大傑作」という方向を見てほしい、と思う)。
『勝手にふるえてろ』の場合も、地の文が魅力的な小説なのに映画ではモノローグに頼ることなく、淡い人間関係をきちんと映像にすることで、映画化が成功している。出勤する地味な道のりが、個性的な脇役陣たちによって、派手な妄想世界に変化する。これは映画にしかできないことだ。そして、松岡茉優さんの真っすぐに人を見ない目の動きや挙動不審な仕草、渡辺大知さんの面倒くさい雰囲気、北村匠海さんの冷たさ、俳優の仕事によって、関係のひりひりする感じが画面からあふれ出た。
観終わったあと、「人間関係とは、一体なんなのだろう?」と考えさせられた。誰だって、他人のことを、真の意味で知ることは、永遠にできない。どんなに向き合っても、奥の奥までしっかりと付き合うということは不可能だ。私たちもまた、ヨシカなのだ。ヨシカのことをつい笑ってしまうが、私だって妄想の世界でしか生きられない。