役所広司が熱演!オリンピック東京開催に尽力した嘉納治五郎とは<いだてん>
最大の危機にあっても、“逆らわずして勝つ”、という姿勢
1938年、 嘉納はカイロでのIOC総会から帰国する船・氷川丸の中で息を引き取った。
晩年の嘉納について真田氏は、「カイロでのIOC総会に出かけるとき、東京の返上やロンドンの突然の立候補(実際にはすぐに取り下げた)などの状況を聞かれた時、治五郎は『今からそんなことを心配したら頭がはげる。いざとなれば柔道の奥の手を使うまでさ』とユーモアたっぷりに出かけました。最大の危機にあっても、逆らわずして勝つ、という姿勢だったのでしょう」と話す。
嘉納の逝去にあたってIOC委員から送られた追悼メッセージからは、「いかに治五郎が尊敬されていたか分かる」とのこと。
作中にも登場したIOC会長のラトゥール伯爵は、「嘉納氏の逝去は単に日本にとって偉大なる損失たるに止まらず、全世界のスポーツ界にとってもまた同様である。氏は青年の真の教育者であった。我々は嘉納氏の想い出を永く座右の銘として忘れないであろう。あたかも兵士のごとく氏は自己の義務を遂行しつつ逝った。しかし氏はもっと永く生きて氏の生涯の夢であった東京オリンピックを見るべきであった。この東京オリンピックこそ、氏が日本のあらゆるスポーツを今日の高き標準に引き上げるため費やした永年の労苦に対する報酬であったであろう。日本の全スポーツマンに対し、我々の最も深き哀悼の意を伝えたい」とメッセージを寄せている。
10月6日(日)放送の第38回では、嘉納の死によって組織委員会は求心力が失われ、さらに日中戦争が長期化し1940年の東京オリンピック開催への反発が強まる様子が描かれる。
嘉納が夢見た東京オリンピックは果たして開催できるのか、今後の展開に期待が高まる。