青天を衝(つ)けのあらすじ一覧
明治35(1902)年6月。アメリカを訪れた栄一は、ホワイトハウスで民間人としては異例のルーズベルト大統領と会談を行う。日本の軍事面のみが注目され、経済への評価がまだまだ低いことを痛感する。明治37(1904)年2月。日露戦争が勃発。戦争への協力を求められた栄一は、演説の直後に倒れてしまう。栄一の見舞いに訪れた慶喜は、「生きてくれたら自分のことは何でも話す」と、涙ながらに語り掛ける。栄一らは慶喜の功績を後世に伝えようと、伝記の編纂を始める。
明治22(1889)年夏。栄一や旧幕臣たちは、東京・上野で家康(北大路欣也)が江戸城に入って三百年の節目を祝う「東京開市三百年祭」を開催する。栄一は、会場で昭武(板垣李光人)らと再会し、旧交を温める。参加者が「徳川万歳」と祝う中、栄一は汚名をかぶったまま静岡で暮らす慶喜を気に掛ける。一方、栄一の息子・篤二は跡継ぎの重責から逃れるかのように、ある過ちを犯す。時は流れ、明治27(1894)年夏。日清戦争が始まり、日本の戦況を伝える報道に人々は熱狂する。
明治15(1882)年。栄一や三井物産の社長・益田(安井順平)らは、再び岩崎の海運独占に対抗するため、海運会社の共同運輸会社を設立。共同運輸の営業が開始されると、早速三菱との戦いが始まる。そんな中、千代(橋本愛)を亡くして憔悴していた栄一は、知人の勧めで豪商・伊藤八兵衛の娘・兼子(大島優子)と再婚することに。程なく、突然岩崎が病に倒れる。五代は共同運輸と三菱の争いに終止符を打つため、栄一と岩崎の弟・弥之助(忍成修吾)との間を取り持とうとする。
明治13(1880)年8月。栄一は三菱の海運独占に対抗するため、三井物産の社長・益田(安井順平)と協力し、東京風帆船会社を設立。だが、岩崎の新聞を使った巧みな妨害工作に劣勢を強いられる。また、養育院も東京府から事業縮小を迫られ、なかなか前に進めない栄一に対し、岩崎は着々と事業拡大を推し進める。その頃、栄一の長女・うたと穂積陳重(田村健太郎)の縁談が持ち上がり、意気投合した二人は結婚。渋沢家が幸せな空気に包まれる中、千代が病に倒れてしまう。
明治12(1879)年。アメリカ前大統領・グラント(フレデリック B)の来日が決まり、栄一らが民間を代表して接待することに。栄一は、夫人同伴が当たり前の西洋流を取り入れようと、千代やよしにも協力を求める。そこに大隈綾子(朝倉あき)ら政財界の婦人たちも加わり、西洋式マナーの習得に悪戦苦闘する。6月になり来日したグラントを官民挙げて歓迎する中、グラントが渋沢家に行きたいと言いだす。渋沢家では、千代が中心になって前大統領を歓迎するための準備を始める。
明治11(1878)年。諸外国との不平等な条約の改正を推進する伊藤は、欧米に倣って商人の声を集める組織づくりを栄一に依頼。栄一は、商人たちが業種を超えて手を組める組織「東京商法会議所」を設立する。その頃、初めて養育院を訪れた千代は、身寄りのない子供たちに胸を痛め、世話をしたいという思いを強くする。そんな中、岩崎から宴席に誘われた栄一は、岩崎と商業で国を豊かにしようと意気投合するが、手法を巡って意見が真っ向から対立。激論の末、会合は物別れに終わる。
明治7(1874)年11月。第一国立銀行の大株主・小野組が放漫経営で多額の借金を抱えて破綻する。小野組の破綻の影響で、無担保で多額の貸付をしていた第一国立銀行も連鎖倒産の危機に陥る。さらに、三野村率いる三井組が、この機に乗じて第一国立銀行を乗っ取ろうとたくらんでいた。栄一は銀行を守るため、三野村との一世一代の大勝負に出る。一方、喜作は主要な輸出品である蚕卵紙を値崩れさせようと、横浜の外国商館が口裏を合わせて買い控えを始めたことに憤慨する。
明治6(1873)年7月。国立銀行条例に基づいて、日本橋兜町に日本初の銀行・第一国立銀行が開業する。栄一は3年半勤めた大蔵省を井上馨(福士誠治)と共に辞職し、同行の総監役として新たな道を歩み始める。開業後、駆け付けた五代は、「“商いは化け物”、魑魅魍魎がはびこっている」と栄一に忠告する。その頃、三菱を率いる岩崎弥太郎は、大蔵卿に就任した大隈(大倉孝二)と結び付きを強め、海運業で急成長する。そんな中、ゑいが体調を崩し、東京の栄一の元に身を寄せる。
岩倉使節団として米欧に向かった大久保(石丸幹二)らが不在の中、栄一や井上らは、日本で初めてとなる銀行の設立に乗り出す。栄一らは、豪商の小野組と三井組に協力を仰ぐも難航。民間の合同による銀行を目指す栄一と、独自に銀行を設立したい三井が対立し、栄一は三野村利左衛門と熾烈な駆け引きを繰り広げる。その頃、富岡製糸場の操業を始めたい惇忠は、あるうわさが原因で工女が集まらないことに悩む。惇忠は誤解を解くため、娘のゆう(畑芽育)に伝習工女になってほしいと頼む。
明治4(1871)年5月。栄一は新しく流通させる硬貨の品質を確認するため、大阪の造幣局に出張することに。そこで栄一は五代と再会し、これまでの恨み言をぶつける。同年7月。新政府の首脳会議に出席していた西郷隆盛(博多華丸)が、「まだ戦が足らん」と声を上げる。井上馨は、「廃藩置県を断行せよ」との西郷の意思表示と理解し、栄一らにある極秘の任務を託す。冬を迎えたある日、出張先の大阪から帰宅した栄一の元に、父・市郎右衛門が危篤との知らせが届く。
明治2(1869)年11月。篤太夫から元の名に戻した栄一は、大隈の説得により明治新政府に出仕する。栄一は、大隈の同意の下で各省の垣根を越えて新しい国造りを行う「改正掛」を新設。掛長になった栄一は、優秀な人材を求めて杉浦や前島密(三浦誠己)らを静岡から呼び寄せる。栄一らは租税の改正、貨幣や郵便制度の確立などの改革に乗り出すが、大蔵省で栄一らの活躍を快く思わない一派との亀裂が生じてしまう。程なく、栄一は久々に再会した惇忠に、ある提案を切り出す。
明治2(1869)年11月。静岡藩となった旧駿府で新たな道を歩み始めた篤太夫の元に、太政官から御召状が届く。新政府から大蔵省への出仕を求められた篤太夫は、直接断りを入れるため東京へ向かうことに。篤太夫は、伊藤博文の案内で大蔵省を取り仕切る大隈重信を訪ね辞退を申し出る。だが、大隈は新政府には篤太夫が必要なのだと熱弁を振るう。一方、ようやく謹慎を解かれ宝台院を出た慶喜は、「自分のことは忘れて日本のために尽くせ」と、篤太夫に最後の命を下す。
駿府で慶喜と久々に再会を果たした篤太夫は、慶喜の側近・一翁(木場勝己)から駿府藩の勘定組頭を命じられる。だが、篤太夫は水戸徳川家を相続した昭武(板垣李光人)のことを思って辞退する。しかし、この命が慶喜の配慮であることを一翁から聞かされ、駿府に残る決断をする。篤太夫はパリで学んだ知識を生かし、武士と商人が力を合わせて商いを営む「商法会所」を設立する。商社と銀行の機能を兼ね備えた金融商社の組織をつくり、駿府藩の財政改革に乗り出す。
明治元(1869)年12月。6年ぶりに故郷の血洗島に戻った篤太夫は、千代らとの久々の再会を喜ぶ。篤太夫は、養子になった平九郎(岡田健史)が命を落としたとのうわさを聞き、自責の念に駆られる千代を抱き締める。そして尾高家に起こった悲しい出来事に大きな衝撃を受ける。程なく、篤太夫は昭武(板垣李光人)から預かった書状を届けるため、慶喜が謹慎している駿府に向かう。駿府藩の中老・大久保一翁(木場勝己)にパリでの収支を報告した篤太夫は、慶喜への謁見を願い出る。
明治元(1868)年11月3日。紙幣の流通や金融制度を学んだ篤太夫は、パリから帰国する。横浜港に到着後、外国奉行支配の杉浦や福地源一郎(犬飼貴丈)と再会を果たす。そこで篤太夫は、福地らから鳥羽・伏見の戦いで新政府軍に敗れた経緯や慶喜と旧幕臣の動向を聞かされる。さらに、恵十郎(波岡一喜)らから新政府軍と戦っていた成一郎や惇忠らのその後を知らされる。新政府軍に敗れた成一郎らの安否が分からず、頭の中が整理できない篤太夫は故郷の血洗島に戻ることにする。
慶応4(1868)年1月2日。パリで昭武らと新年を祝う篤太夫の元に、幕府から御用状が届く。慶喜が前年の10月に政権を帝に返上する「大政奉還」を行ったという内容に、一同は大混乱に陥る。事実を受け止めた篤太夫は幕府からの送金には頼れないと悟り、昭武の留学費用を捻出するべく、さらなる節約策を講じる。そんな中、銀行家のエラール(グレッグ・デール)に連れられて証券取引所を訪れた篤太夫は、その役割や債券の仕組みを学び、ある決意を固める。