大河ドラマ「真田丸」('16年NHK総合ほか)を手掛けた脚本家・三谷幸喜が、「第91回ザテレビジョン ドラマアカデミー賞」の脚本賞を受賞。'04年の大河ドラマ「新選組!」以来、6度目の脚本賞受賞となる。ドラマ放送開始前、「戦国ものなら真田をやりたかったので、夢がかないました」という熱い思いを語っていた三谷。1年間という長い期間、向き合い続けた「真田丸」を書き終えた今の心境を聞いた。
――脚本賞、おめでとうございます。
「ザテレビジョン ドラマアカデミー賞」って、まだ続いていたんですね(笑)。第91回ですか、すごいですね。「新選組!」が12年前で、それ以前には「警部補・古畑任三郎」('94年フジ系)などで脚本賞をいただいていますね。ということは、そんなに長い間、僕は連続ドラマを書いていなかったのか・・・という驚きがあります。僕は、舞台も映画もやりますが、脚本家として一番好きな仕事は連続ドラマなんです。だから、こうやって12年ぶりに賞をいただき、視聴者の皆さんに忘れられていないということを再認識して、“また連ドラやりたいな”という思いが湧いてきます。そういう気持ちにさせていただいたのも、うれしかったです。
――「真田丸」は、真田幸村こと信繁(堺雅人)の目線、という視点を特にこだわり、描かれましたね。「本能寺の変」や「関ケ原の戦い」などをあっさり終わらせる一方、「天正壬午の乱」など知られざる歴史を掘り下げました。
それは、始めから奇をてらったわけではなく、真田信繁という題材が題材なだけに、どうしてもそういう目線になったという結果です。僕は大河ドラマが大好きで、'73年の「国盗り物語」(NHK総合)を始めとして、子どものころから見てきたので、「僕だったらこうしたい」という思いはいろいろありました。戦国時代を扱った大河はいっぱいあるから、それに負けないものをと考えたときに、例えば、「大坂の陣」は結果が分かりきっている。それでも、信繁たちが勝つのか負けるかということは予測がつかないようにしたかったんです。でも、それってけっこう難しい。どうしても有名な歴史的事実があるから、そこから逆算してストーリーを作りがちなんですが、当時は、関ヶ原で東軍と西軍のどちらが勝つかなんて、先のことが分かっている人は誰もいなかったわけですよね。そこは信繁の目線に寄り添うというか、先読みしない形で作ることで、もしかしたらハラハラ感、ワクワク感が生まれたのかもしれない。常に先を読まない姿勢というものをなんとか頑張って貫いた結果かなという気がします。
――終盤、家康の大坂城攻めが始まると、視聴者がSNSで「今年は豊臣が勝つらしいよ」と盛り上がっていました。
僕はそのつもりで書いていましたから。正直に言えば、合戦のシーンって僕は上手じゃないというか、いまだにベッドシーンと戦(いくさ)はどう書けばいいのか分からないんです(笑)。「真田丸」を書くにあたって、戦いのアクションは現場の皆様におまかせし、脚本家としてなぜこの戦が負けたのかということをきちんと描こうと思いました。それも「どこどこ軍の猛攻撃によって敵は粉砕された」というようなナレーションで終わるパターンが多いけれど、そうではなく、負ける側には負ける理由があるんだよということをなるべく史実に沿った形で書きました。最終回の大坂の夏の陣で、大野治長(今井朋彦)が豊臣家の馬印を戦場から持ち帰っちゃったことで戦の流れが変わる。そういう瞬間は書いていて面白いし、「そんなもんだよな」って気がします。
――そこに至るまで豊臣家の内部がまとまらず、組織として機能しなくなっていく段階も、描いてらっしゃいましたね。
中盤、信繁が秀吉の下についてからは、僕の中でこのドラマはサラリーマンものだと思っていました。そこで一番参考になったのは森繁久彌さんの社長シリーズ(映画「へそくり社長」('56年)など)なんです。信繁がそういったサラリーマン的社会でどう生きていくか。これまでの大河で信長、秀吉、その右腕みたいな人が出てきましたが、信繁のように何もしていない人(表に出ていない人)はいませんから。つまり、客観的には組織の歯車でしかなかった人を描くからには、その小さな歯車がどれだけ組織を動かしたのか、または動かさなかったのかということを、きちんと描きたいと思っていました。逆に言えば、それは信繁じゃないと描けないことですよね。実は、城持ちではない人が主人公の戦国大河は「真田丸」だけと思っていたら、「風林火山」('07年)の山本勘助(内野聖陽)がいた。でも、あとはほとんど城主ですからね。
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