猫をかぶってる度合いによって、猫になる姿の範囲が変わるのかも
劇中では仮面をかぶることで人間が猫の姿になれるので、それがタイトルの「猫をかぶる」にかかっているんだと思いますが、猫をかぶってる度合いというか、どれくらい自分を偽って生きてるかによって猫になる姿の範囲が変わるんじゃないかなっていうのを、見てて思ったんです。
というのも、ムゲちゃんはお面をかぶったら猫になれたのに、日之出くんがムゲちゃんを助けようとしてお面をかぶっても、手だけしか猫になれませんでした。それは、日之出くんのおじいちゃんが陶芸工房を畳むという話を聞いた時に、何も言えなかったことが関係しているのかもしれないなって。本当はやめてほしくないし、俺が継ぐよって言いたいのに、そこまでの自信がなかった。ろくろを回しながら手で作る陶芸を好きという気持ちに嘘をついた日之出くんは、“手が猫をかぶった”から手だけ猫になった…そう考えてみると、めちゃめちゃ深い!!って感動しました。
だから“猫をかぶる”という言葉は決して悪い意味だけじゃなくて、「猫の仮面をつけて嘘の自分で生きてしまっている」という切なさも感じられますよね。そして「泣きたい私は猫をかぶる」というタイトルにも、本当は泣きたいのに笑顔で過ごしてるムゲちゃんが抱えているストレスだったり、“泣きたい私は全身で仮面をかぶって生きてるんだよ”っていう叫びが込められているのかもしれない、と思いました。
東宝