80年代に一世を風靡した「オレたちひょうきん族」(’81~’89年)をはじめ、「あっぱれさんま大先生」(’88~’03年)、「ごきげんよう」(’91~’16年)、さらには「FNS27時間テレビ」誕生のきっかけとなった「FNSスーパースペシャル 一億人のテレビ夢列島」(’87年)、20年以上を経て現在も放送中の長寿番組「はやく起きた朝は…」などなど、フジテレビを代表する人気番組を数多く手掛けてきた三宅恵介氏。常に“テレビの笑い”にこだわり続ける彼に、師匠と慕う萩本欽一から学んだことや、今のテレビに対する思いなど、独自のテレビ哲学を語ってもらった。
ドリフとは正反対の番組作りに徹しました
──まずはやはり「オレたちひょうきん族」のお話を伺いたいのですが、この番組はどのような経緯で始まったのでしょうか。
「まず『THE MANZAI』(’80年)という番組が大人気になって、そこからスターになったツービート、B&B、(島田)紳助・(松本)竜介といった芸人さんを、毎日日替わりでMCに迎えて、お昼の番組をやろうということで、『笑ってる場合ですよ!』(’80~’82年)が始まったんですね。で、当時はプロ野球の全盛期で、うちの局も土曜の夜にナイター中継をやっていたんですが、そのナイターの試合が雨で中止になったときの、いわゆる“雨傘番組”を、僕ら『笑ってる場合ですよ!』のスタッフが作ることになって。そして出来上がったのが『オレたちひょうきん族』なんですよ。その後、晴れて毎週土曜の夜8時に放送されることになったわけです」
――最初から、番組のスタイルは変わらず?
「ええ。というのも、『笑ってる場合ですよ!』が生放送の公開番組だったので、プロデューサーの横澤(彪)さんが、『今度は“作り物”の番組をやろう』と。そこが出発点ですから。おまけに当時、土曜の夜にはザ・ドリフターズの『8時だョ!全員集合』(’69~’85年TBS系)が栄華を極めてて、そんなオバケ番組の裏で何をやったって勝てっこないんだから、自分たちの好きなことをやろう、と(笑)。とはいっても、ただ好きなことをやっただけじゃ、番組の存在価値は生まれない。そこで考えたのが、ドリフとは正反対の番組作りに徹しよう、ということだったんです。“人と同じことをやるな”というのは、僕の師匠の萩本欽一さんから教わったことでもあるので、その教えを守って…と僕が勝手に思ってるだけですけど(笑)」
――“「全員集合」と正反対の番組作り”というのは、具体的には?
「例えば、『向こうが公開生放送だったら、こっちはスタジオ収録だ』とか、『向こうは小学生とオジサンにウケてるから、こっちは中高生とOLをターゲットにしよう』とか。あと、ドリフはいかりや長介さんを中心にチームプレーでコントを作っているので、ウチは個人プレーで行こう、というのも意識してました。漫才コンビも、あえてバラして一人ずつキャラクターを立てたんです。そこから、(ビート)たけしさんのタケちゃんマンとか、(明石家)さんまさんのアミダばばあ、島崎(俊郎)くんのアダモステ、そういった名物キャラも生まれてきて。すると、だんだん『全員集合』よりも人気が出てきちゃったんですよ(笑)。だから、『ひょうきん族』という番組は、『全員集合』があったからこそ存在価値を打ち出すことができたんです。でも、それは見方を変えれば、たまたまの流れで人気番組になれただけ、とも言える(笑)。僕は、その“流れ”こそが、バラエティーを作る上で最も大事なことだと思ってるんですけどね」