――3rdシーズンが制作されることになり率直な感想を教えてください。
2ndシーズンの時点でヒュースがどんどん活躍していく話ではあったんですけど、3rdシーズンはついにランク戦で、思いっきり活躍するということで「やっと来たな」と言う感じですかね。
2ndから3rdはそんなに期間は空いていなかったんですけど、1stから2ndはかなり空いていたので、当時連載していた時点から、「ヒュースは追々仲間になるよ」という展開があると伺っていました。
もし続きがあればアニメでも演じさせていただくことができるけど、当時は続編があるという保障がなかったので、「よかったな」「嬉しいな」っていうのが率直な気持ちですね。
――やはり、ご自身が声優を務めるキャラクターが特に活躍するシーズンということもあって気合いの入り方は違いましたか?
活躍するというよりは、1stシーズンでまずアフトクラトル側、敵側としてやってきたので、僕自身も最初はそのつもりで現場での立ち位置もいました。
アニメって一個の座組を作っていくようなところもあるので、敵の状態から完全に味方の、しかもメインのど真ん中に途中から加わるというのはあんまりない経験なので、新鮮でしたし、ありがたい経験だなって思いますし、もちろん嬉しくもありました。
ただ、これがみんなで一緒に収録している時だったら、余計にもっと実感が湧くんだろうなっていうのはありますね。
特にこの現場はベテランの方も多いから、みんな座組の中で自分がどの立ち位置の人なんだろうっていうのを自然と汲んで行動するんですよ。
例えば、行ける人でご飯とか行きましょうよとか、コミュニケーション取りましょうよみたいなのも、真ん中の世代の人がやる仕事だと思っていて。真ん中の人たちがみんなで連携深めていきましょうっていうことを表現したら、自然と周りの先輩たちも協力しようとか、行きやすいじゃないですか。
自分が先輩になって余計にわかるんですけど、先輩から動きすぎるとパワハラみたいになっちゃうんじゃないかとか、自分が言っちゃうと断れないとかもあるんで、基本的には下の方から、最初の投げ掛けを発信した方が、いろんなことがうまく回っていくと思います。
実際にコミュニケーションを取った方が楽しいっていうのが、何よりあるんですけど、それだけじゃなくて、人と人が生身で演技をして作っていくものなので、やっぱりコミュニケーションを取っていた方が、いろんなものがうまく回るし、それを芝居にも持っていける感じが僕はあると実感しました。
もちろん、今回も座組の中心にいるという気持ちではいますけど、これがコロナ禍じゃなくて、今まで通りみんなで録っていたら、途中から来たのに真ん中の人の仕事をしようとしてたと思います。
――改めて「ワールドトリガー」という作品の魅力はなんですか?
いろんな魅力はあるんですけど、他の作品と決定的に毛色が違うのが、“トリオン体”という部分ですよね。
実際、やっていることは非常にシビアな戦いをしているし、アフトクラトル戦では本当に生身の人間がさらわれたりとか、命を失ってしまったりとかっていうのがあるような状況でした。
でも、“トリオン体”という部分で、痛みを感じないとか、ランク戦もあえてゲーム感覚でできるような、戦うことを楽しむような場をうまく作ってるから、それによって不思議な緊張感があるようなないような、とっても不思議な状態なんですよね。
それはアニメの演出でもすごく表れていて、例えば、戦うシーンがあると普通は演者として肉体の状態とかを意識するんですよ。
当然戦いながら動いているので、体の動きみたいなものを芝居に乗せたり、走ってきた、消耗、息切れ、疲労感とかもそうですし、精神的な緊迫感やプレッシャーとういうものが肉体にも乗ってきます。
緊張していると、どうしても息が浅くなったりとか、体が強張っていたりとかっていうのを体の状態や動きを芝居に乗せるというのが、戦ったりスポーツしたりするシーンでは乗せるんですけど、この作品に関しては基本乗せないんですよね!
もちろん、メンタル的な緊張感とかはあるんですけど、“トリオン体”なんで基本的に疲労しないんです。
すごいプレッシャーを受けたりして、疲労してるような雰囲気になる時とかもあるけど、逆にそういうのがあるからこそ、たまに本当にやばい状況だと思うことがあるんですよ。
それが特によく出るのが主人公でもある修ですよね。
修は“トリオン体”の状態でも、芝居に緊張感や緊迫感、ヒュースとか遊真とか強い人だったら入れないようなところでのちょっとしたアドリブの息づかいみたいなものとか、それに疲労や緊張が乗っていたり、そこまでの体の動きの積み重ねが乗っていたりというのが、修は入ってたりします。
修が必死で頑張っている様子や、彼の下から這い上がっていく対比がすごく出るんですよね。
そういった表現が、他の強い人たちだと普通の戦いなら乗っているはずのものが乗らないっていうところがあるから、逆にそれが乗っている人が映えたりもするし、普段、強い人でも動揺が乗ったり、ちょっとした息が乗るだけで、あ、これ本当にやばい状況なんだなとか、本当に強い敵なんだなとか、追い込まれているというのが出たりします。
そういった芝居付けが全然違うのが現代っぽくもあって、実際やっていることは戦争的なことなんですけど、どこか戦っている少年少女たちがゲーム感覚であるという。非常にゲーム的に合理的に戦術を考えたりとか、トリオン体だからということを前提に、自分が負けたりとか、自分を駒として平気で扱えたりとかっていう合理性みたいなものって、おそらく現代だからこそ共感されたり、刺さったりするのかなと思います。
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