'03年にWOWOW初の自社制作ドラマ枠としてスタートした「ドラマW」。青木泰憲プロデューサーはその立ち上げから携わり、今でも年に数本というペースでハイクオリティーなドラマを送り出している。'08年には「連続ドラマW」もスタート。'09年の「空飛ぶタイヤ」が、同年の日本民間放送連盟賞・番組部門テレビドラマ番組最優秀賞など多くの賞を受賞したほか、数々の作品が高い評価を受けている。そんな青木氏に「ドラマW」の立ち上げから振り返ってもらった。
教えてくれる人はいないし、見本もない。初めは本当に手探りでした
──もともと、WOWOWに入社されたきっかけは?
「きっかけは、自分も加入していたということですかね(笑)。父が映画が好きで、僕以上にWOWOWを見ていたんですよ。父は広告代理店でCMを作っていたんですけど、その姿を見ていて僕も自然とそういった仕事をしたいと思うようになっていました」
──'99年に入社されて、'03年の「ドラマW」立ち上げから関わってらっしゃいますね。
「中途入社だったので、今まで他の人がやっていなかったことをやらなければ、という使命感があったんです。そうでないと自分の存在意義がないなと思って。もう一つは、手に職をつけたい、コンテンツ作りという職能を極めたい、という思いもありました。それは自分のためでもあるし、ドラマというジャンルがまだ確立されていなかった会社のためでもある、という考え方で(笑)」
──ドラマの作り方を教えてくれる先輩もいなかったわけですよね。
「教えてくれる人はいないし、見本もない。初めは本当に手探りでしたね。制作会社のスタッフに教えてもらいながら、必死でノウハウを覚えていった感じです。
今思うと、'08年に『連続ドラマW』が始まったのが第2のスタートでした。それまでの単発の『ドラマW』では、演出に有名な映画監督を迎えていたので、作品内容にしてもキャスティングにしても監督の力に頼るところが大きくて、プロデューサーとしての力は薄かったんですよ。ですから連ドラを始めるにあたっては、大きく舵を切って、プロデューサー中心で制作しようと考えました。過去の視聴者の好みや地上波との差別化についても相当研究しましたね。いきなり大スターが出てくれる保証はなかったので、そこを逆手に取って群像劇にしよう、とか。お手本がない分、そういう『連続ドラマW』の法則みたいなものをいくつも考えて、それを頼りに作っていった感じです」