テレビの中をゆる~くぶらつく!?さまぁ~ずが笑いの原点をプレーバック!
テレビ漬けの青春時代も芸能界への興味はナシ!?
下ネタを全開にしてもシュールさを秘めた独特のスタイルは崩れない。そんな2人のルーツは少年時代からのテレビ体験にさかのぼる。
大竹「小さいころはテレビばっかり見てました。漫才ブームのど真ん中世代なので『花王名人劇場』('79~'90年)、『THE MANZAI』('80~'82年共にフジ系)の他、『8時だョ!全員集合』('69~'85年TBS系)や『オレたちひょうきん族』('81~'89年フジ系)とか」
三村「あとプロレスやプロ野球も」
大竹「特に金曜日は大変だったんですよ。バラエティーやスポーツの他に『太陽にほえろ!』('72~'86年日本テレビ系)、『3年B組金八先生』('79年ほかTBS系)なんかのドラマもあったから」
三村「激戦だったな~。そこに録画なしで挑む(笑)…そんな時代でした。高校で一緒になってから、テレビの話をすることもありましたね。とんねるずさんの『夕やけニャンニャン』('85~'87年フジ系)の話題とか」
テレビに夢中の青春時代のエピソードを聞くと、その勢いのままこの世界に飛び込んだのかと思いきや…意外な答えが!?
大竹「2人とも“テレビに出たい!”という願望はなかったですよ。芸能界に入ったのも、もう一人の友達に誘われて…という形でしたし」
三村「ただ、高校生のときからネタは作ってたりしましたけどね。趣味として(笑)」
大竹「夏休み明けの最初の授業で、先生が『おまえたち、暑いから勉強したくないだろ。大竹と三村、前に出てこい!』っていきなり言いだして、同級生の前で1時間しゃべったことがあります。『さまぁ~ず×さまぁ~ず』('07年~テレビ朝日系)みたいな形で」
三村「あのときはかなりスベってたけどね(笑)。男子校だったから後半は自動的に下ネタに突入しちゃったりしてたし」
大竹「その感じが今も続いちゃってるんでしょうね~。男子校で培われた妄想的な下ネタがね(笑)」
デビュー後の不遇時代に見つけた“自分たちらしさ”
テレビに出る側の人間となった'88年、バカルディとして活動を開始。
三村「初期の話題として『大石恵三』('93年フジ系)が引き合いに出されますけど、うちらとしてはあまり印象がないというか、フワフワと始まって力を発揮できないまま番組が終わった感じ。むしろその後、出させてもらった『―新・諸国漫遊記』('90~'00年フジ系)の方が、自分たちにとっては大きかったんです」
大竹「『モヤモヤさまぁ~ず2』('07年~テレビ東京系)に近い自由さがあってね」
三村「そうそう。“3万円で2泊3日する”というルールはあったけど、それ以外の決まり事はほぼナシで」
大竹「確かにあの番組は、われわれのロケの基盤になりましたね」
2人は手応えを得るも、その後は自分たちらしさを発揮できる番組に巡り合えない時期も。そんな中「新ウンナンの気分は上々。」('99~'03年TBS系)出演は大きな転機になったそうだ。
大竹「“さまぁ~ず”改名のきっかけになった番組として語られますけど、他にも得たものがありました」
三村「ウッチャンナンチャンのお二人は本当に恩人ですし、あの番組を通して『ロケなら自分たちらしさが発揮できる!』ということをあらためて確認できました」
大竹「あのころからロケが好きだという自覚はありましたね」
さらにその後、「―上々。」で関係が深まった内村光良がメーンを務めた「内村プロデュース」('00~'05年テレビ朝日系)が大躍進につながる。
三村「あんなに脳みそを使った番組は他にないですよ」
大竹「とにかく“大喜利”でしたね。楽しかったなぁ」
三村「フリップに書くだけじゃなくて、体の動きで答える大喜利とか、あそこでいろんなスタイルを経験できました」
大竹「あれ、初めて出る芸人はみんなビックリしてたんですよ。『本当に事前にお題を教えてもらえたりしないの!?』って(笑)」
(新)さまぁ~ずの神ギ問
毎週土曜 夜7.00-7.57
フジ系
※初回は夜7.00-8.54の拡大版
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