麒麟(きりん)がくるのあらすじ一覧
天正10(1582)年5月。信長は、甲州征伐で長年の宿敵・武田家を滅亡に追い込む。その戦の功績を信長に認められた家康(風間俊介)は、信長のいる安土城を訪れる。光秀は信長から宴席の饗応役を命じられていたが、信長に理不尽な叱責を受けて任を解かれてしまう。さらに信長は、光秀と縁深い四国の長宗我部征伐に乗り出すと光秀に告げる。「戦のたびに殿は変わってしまった」と嘆く光秀に対し、信長は「己を変えたのは光秀自身だ」と言い放ち、ある究極の命令を突き付ける。
天正7(1579)年。長年にわたり光秀を苦しめた丹波の八上城と黒井城が落城したことで、ようやく丹波全域を平定することに成功する。その後、信長は己の言いなりにならない帝(坂東玉三郎)の譲位を強引に進めようとする。その責任者を命じられた光秀は、月にまで届く巨大な大木を切る不思議な夢に毎夜うなされる。そんな中、光秀は京にやって来た帰蝶(川口春奈)に、「こんなとき、亡き道三(本木雅弘)ならどうしただろうか」と尋ねる。帰蝶は、信長の妻らしからぬ意外な答えを返す。
信長からの信頼が厚く、摂津の国を任されていた有岡城城主の荒木村重(松角洋平)までもが信長に反旗を翻す。光秀は、長女のお岸(天野菜月)が村重の長男・村次に嫁いでいたこともあり、秀吉と共に有岡城に出向いて村重を必死に説得する。だが、村重が首を縦に振ることはなく、秀吉は激しく憤る。光秀は村重との話し合いの中で、この終わりの見えない全ての戦が、武家の棟梁たる、将軍の復権につながっていると悟り、信長に追放された義昭に会うため鞆の浦に向かう。
天正6(1578)年。光秀が加勢した大坂本願寺との戦は決着がつかず、丹波の土豪や国衆との戦いも終わりが見えず、戦に明け暮れていた。その頃、備後の鞆に身を寄せていた将軍・足利義昭は、信長を倒して再び京に戻れるよう、諸国の大名に向けて御内書を送り続けていた。一方、京の館に戻った光秀の元を、播磨出陣を控える秀吉が訪ねてくる。秀吉は、光秀が茶釜「平蜘蛛」を持っていることを信長に注進していた。光秀は、信長に自分が裏切ったように伝えた秀吉を詰問する。
天正5(1577)年8月。大坂本願寺との戦の最前線から久秀が勝手に離脱し、信長に衝撃を与える。程なく、光秀は伊呂波太夫の導きで久秀と対面を果たす。怒りに震える光秀は、離反した真意を久秀に問いただす。久秀は、信長が家筋を重んじて、宿敵の筒井順慶(駿河太郎)に大和の新たな守護の座を与えるのが許せないと吐露。そして自分に大和を任せる本願寺側に付くと宣言し、光秀を絶句させる。同年秋。久秀は大和・信貴山城に籠城し、信長に抵抗する。
天正3(1575)年11月。武田軍との長篠・設楽原の戦いや越前の一向一揆の制圧など、戦に次々と勝利した信長は、朝廷より武士としては最も高い冠位を授かる。 翌年3月。信長は丹波から光秀らを呼び寄せ、大坂本願寺の戦いに送り込むが、敵は予想以上に手ごわく苦戦。そんな中、光秀らの前に信長が現れ、重臣たちにむちゃな要求を繰り返す。信長の暴走を止めようとする光秀は、高熱を出して倒れてしまう。京の館に運び込まれた光秀の姿に驚いた熙子は必死に回復を祈る。
天正2(1574)年夏。光秀が築城した坂本城に預けられていた三淵藤英(谷原章介)は、ある行動が発覚し、信長から自害を命じられる。同年秋。河内の国に攻め込んだ光秀は三好の一党を追い払い、信長は伊勢長島の一向一揆を完全に鎮圧する。そんな中、美濃から斎藤利三(須賀貴匡)が主君・稲葉一鉄(村田雄浩)の下から逃れ、家臣にしてほしいと光秀を訪ねてやって来る。利三の扱いを巡り信長に呼び出された光秀は、家臣一人の命も大事にしない主君では国は治まらないと持論を告げる。
光秀の仲立ちで久秀(吉田鋼太郎)と筒井順慶(駿河太郎)の戦は回避されたが、武田信玄(石橋凌)が信長(染谷将太)討伐に動き始めていた。 その頃、光秀は、幕府や義昭は眼中にない信長が帝(坂東玉三郎)や朝廷との関係強化によって天下を治めようとしていることを藤吉郎から聞き、不安に駆られる。一方、摂津(片岡鶴太郎)ら幕府内では、光秀の暗殺計画が浮上する。数日後、光秀は義昭が開いた茶会に出席。そこで光秀は摂津の刺客たちに襲われるが、義昭の元へと急ぐ。
元亀2(1571)年。比叡山延暦寺を急襲した信長(染谷将太)は、僧侶をはじめ女子供まで皆殺しにする非情な行動に出る。残虐極まりない焼き討ちを目の当たりにした摂津晴門(片岡鶴太郎)は、信長と手を切るべきと義昭(滝藤賢一)に進言。さらに、大和の久秀(吉田鋼太郎)と争う筒井順慶(駿河太郎)に援軍を送り、信長が味方する久秀と敵対することで、立場を示すべしと迫る。一方、京に戻っても比叡山の凄惨な光景が脳裏に焼き付く光秀(長谷川博己)は、義昭が筒井に味方し、信長から離れることを決めたと駒から聞かされる。
元亀元(1570)年11月。近江・宇佐山城を本拠にする信長(染谷将太)は、比叡山に陣を敷く朝倉・浅井連合軍と対峙していた。そんな中、和睦を申し入れるべく義景(ユースケ・サンタマリア)の元に向かった光秀(長谷川博己)は、義景が頼りにする延暦寺の天台座主・覚恕(春風亭小朝)と面会する。だが、信長に領地や金品を奪われた覚恕は、光秀の提案を断る。程なく、信長の弟・信興が一向宗に討たれ、事態は切迫。信興が亡くなったことで尾張に戻ろうとしていた信長は、帝(坂東玉三郎)を通じて周囲と和睦を結ぶことを思い付く。
元亀元(1570)年4月。浅井長政(金井浩人)の裏切りにより、殿で退却戦に臨んだ光秀(長谷川博己)や藤吉郎(佐々木蔵之介)らは朝倉軍と浅井軍の追撃をかわし、命からがら京に撤退する。後日、光秀は信長の命で戦で失った鉄砲を調達するため、藤吉郎と堺を訪れる。光秀らは、再会した駒(門脇麦)の協力を得て大量の鉄砲を調達することに成功する。手に入れた鉄砲で再び戦に出た信長だが、摂津での戦いで一向宗徒や三好の残党勢力に苦戦。その上、背後から朝倉・浅井の軍勢が迫り、再び四面楚歌に陥る。
永禄13(1570)年4月。信長(染谷将太)は、家康(風間俊介)や松永(吉田鋼太郎)ら諸国大名の軍勢を従え、越前の朝倉義景(ユースケ・サンタマリア)討伐に向けて出陣。信長らは、破竹の勢いで朝倉領の敦賀までを制圧する。しかし、義景のいる一乗谷まであと一歩に迫った金ヶ崎(かねがさき)で、信長は同盟を結んでいた義弟で北近江の大名・浅井長政(金井浩人)に裏切られ、窮地に陥る。朝倉軍と浅井軍に挟み撃ちにされる危機が迫る中、光秀(長谷川博己)は信長に撤退を進言する。光秀の案を受け入れた信長は京へ撤退を決意し、光秀らは壮絶な退却戦へと臨む。
孤独な立場の義昭(滝藤賢一)は、薬を献上する駒(門脇麦)を話し相手として頼りにしていた。二人は弱者を救う悲田院を造るという夢を通じて仲を深める。一方、信長(染谷将太)に呼び出された光秀(長谷川博己)は美濃に向かう。そこで光秀は、信長から越前の義景(ユースケ・サンタマリア)と戦った場合の勝算について意見を求められる。義景相手に織田軍だけでは勝てないと冷静に考えた光秀は、みかどに戦の正当性を認めてもらえれば大義名分が立ち、他の大名もおのずと集まるはずと進言する。信長はすぐに上洛し、正親町天皇(坂東玉三郎)に謁見する。
将軍の御座所襲撃に怒った信長(染谷将太)が、独断で二条城の築城を進めることに。陣頭に立つ信長が、近隣の国々から人員や物資を強引にかき集め築城を急いだことから、政所の摂津晴門(片岡鶴太郎)の元には信長に対する多くの反発の声が届くようになる。その頃、伊呂波太夫(尾野真千子)に呼び出された光秀(長谷川博己)は、幕府に追われて身を隠す前久(本郷奏多)と対面。前久は、今の幕府には己の私利私欲に駆られた人間しかいないと光秀に指摘する。さらに、前久は幕府の腐敗した内情をほのめかし、光秀は驚愕する。